追憶
『 追憶 』
追憶。注意して語ろう。甘すぎないよう、からすぎないように。
第一話 アパートの管理人
もう、三十年も前になるが、私はメキシコで暮らしていた。
ユカタン半島の北にあるメリダという街で企業研修生として暮らしていた。
企業研修生といっても、仕事の関係では無く、ユカタン大学の人類学教室でスペイン語の修得がてら、マヤ文明に関する講義を聴講する程度の気楽な身分だった。会社の給料とメキシコ政府からの奨学金、両方とも受給するということで経済的にはかなり裕福で時間的にもゆとりを持った優雅な生活をすることが出来た。
メリダという街はユカタン州の州都で、当時は人口二十万人ほどのメキシコとしては中くらいの都市であった。今は、お決まりの都市の膨張で八十万人を越えていると云う。
当時、メキシコシティは千二百万人の人口を有していたが、今は二千万人の超巨大都市と化している。
そのメリダの市内の小さなアパートの一室に暮らしていた。
このアパートはセントロ(中心街)にも歩いて15分という比較的近い距離にあったが、周囲は閑静であり、私は気に入っていた。
また、私が聴講生として学んでいる学校にも歩いて十分といった利便性も備えていた。
そのアパートは部屋数が六室しか無かった。
アパートと言っているが、正確に言うと、ホテルと言った方が分かりやすい。
一日の宿泊代が百ペソ(当時の円換算で千円程度)であった。
食堂は無かったが、部屋にはガスコンロとか冷蔵庫があり、料理をすることが出来た。
また、シーツ・タオル交換を含め、ベッド・メーキングのサービスが付いていた。
バス・タブは無かったが、お湯が出るシャワー設備はあり、その脇に水洗トイレがあった。
六室は全て敷地内に独立した小住宅として一軒ずつ離れて建てられていた。
ミ・カシータ(私の小さな家、という意味)という名前のそのアパートは学校のメキシコ人掃除夫が教えてくれたところだった。
当初、住んだホームステイ先の待遇が悪く、不満をこぼした私に教えてくれたアパートだった。
私が住居を変えたことを知った、メキシコ人同級生がどこに変わったのかと問い、私が近くの「ミ・カシータ」というところだよ、と答えると皆驚いたような顔をしたが、何も言わなかった。
だが、表情を見ると男の同級生は少しニヤリとし、女の同級生は少し軽蔑したような顔をした。
私は変だな、と思い、或る日その年配の掃除夫に問い質した。
ミ・カシータと言うと、皆変な顔をするんだ、別にそう変わったアパートではないのだが、といったことを慣れないスペイン語で私が言うと、彼は、昔は○○だったと言った。
私は○○という言葉が分からず、後で辞書をひいて調べてみた。
調べて、皆が変な顔をする理由がようやく分かった。
辞書には、売春宿、と書いてあったのである。
それで、部屋が分散して独立していること、敷地が高い塀で囲まれていること、等私が妙な造りだなと疑問に思っていたことが全て氷解した。
そのアパートの管理人はアレハンドロ・オチョアという八十歳を越えているが元気な老人だった。
彼の話によると、昔は小学校の先生だったらしい。
今は、姪が持っているこのアパートで管理人をしてのんびりと暮らしているんだ、ということだった。
奥さんを随分と前に亡くし、男やもめを続けている彼は私の良い語学教師となってくれた。日本人には難しいLとRの発音、Fは下唇を少し噛んで発音するとか、会話の途中で私に注意してくれた。
彼は純然たる白人では無かったが、それでもマヤ系のインディオの血はほとんど入っていないと思われるくらい、白人系の顔立ちをしていた。
彼はいつも、門を入ってすぐの受付の机に座って、新聞を読んでいた。私が学校から帰ると、新聞から目を離し、優しい眼差しでいろいろと私に語りかけてくれた。
或る時、随分と暇だったのか、私にマヤの伝説を語ってくれたことがあった。
それは、セイバという巨木に棲むシュタバイ(彼は、イシュタバイと発音していた)の話だった。
シュタバイは妖怪であるが、見掛けは絶世の美女の姿をしている。
若い美人には男は皆弱いものだ。例外は無い、と彼は強調した。
一方、シュタバイも男が好きでたまらない好色な女である。
旅人がセイバの樹にさしかかると、シュタバイが現われ、旅人を自分の色香で誘惑する。誘惑の手練手管は凄いものだ。
どんなに堅い旅人でも最後にはシュタバイの誘惑に負けてしまう。
そして、翌朝、その旅人は体を無数の引っかき傷で傷つけられ、食いちぎられた惨殺死
体で発見される。
といった話であった。
「セニョール・オチョア、あなたはシュタバイに会ったことがあるかい?」
私はいささか頓馬な質問をした。
オチョアさんは大真面目な顔でこう答えた。
「勿論、無い。あれば、今こうして君と話してはいない。墓の下に居るよ」
こう言って、彼は肩をすくめ、私に向かってウインクした。
第二話 アパートの女主人
アパートの持ち主はテレサという中年の女性であった。
このアパートの他にも何軒か家を持っているらしい。金持ちの女だった。
管理人のアレハンドロは姪だと言っていたが、どういう関係の姪なのかは分からなかった。
アレハンドロの血筋の姪なのか、亡くなった奥さんの血筋の姪なのか。
四十歳台に見えたが、未婚なのか、アレハンドロはセニョリータと言っていた。
テレシータ(テレサちゃん)とも呼んでいた。
そのテレシータが私に頼みたいことがあると、アレハンドロが私を呼びに来た。
まさか、部屋代の値上げではないだろうな、と内心少し不安に思いながら行くと、テレシータは細面の厚化粧の顔に満面の笑みを浮かべて待っていた。
時々、見かけるテレサはかなりとっつきにくい冷たい女のように見えたが、こうして微笑んでいるテレサはよく見ると、かなりの美人で官能的な顔立ちをしていた。
頼みというのは、他でもなく、私が日本人ということで、和服用の布地が欲しいとのことだった。
勿論、代金は払うと確約した。
承知した、と私が伝えると、出来るだけ日本的な図柄が良い、と彼女はつけ加えた。
私は早速、郷里の親元にいかにも日本的な感じがする適当な布地を工面して送って欲しいと手紙を書いた。
二十日ほど経って、届いた布地は、日本人の眼から見たら、俗悪な図柄であった。
何と、富士山を背景にして、数羽の鶴が飛翔している図柄だった。
下には、ご丁寧にも満開の桜もあしらってあった。私はいささかうんざりした。
それでも、仕方なく、アレハンドロにテレサを呼んで貰って、渡すと、彼女は大いに喜んだ。
とても、東洋的、且つ日本的で良い、とのことだった。
彼女はその場で代金を快く私に払うと共に、宿泊代も月三千ペソから二千四百ペソに減額してくれた。
今月から毎月減額するとのことだった。
当時の六百ペソという金額は、映画を三十回観ることが出来る金額だった。
大変、ありがたかった
後で、アレハンドロに聞くと、彼女はその布地で和服調の寝巻きを作り、それを持ってボーイフレンドとカンクーンに旅行に行ったそうだ。
私は、ホテルの寝室でその寝巻きを着て、濃い化粧をしたテレサが男を誘う情景を想像して、思わずゾクっとした。
第三話 或る男
フアンという男が宿泊していたことがあった。
二十歳と言っていたが、若いあんちゃんだった。
カリブ海に浮かぶ小さな島、イスラ・ムヘーレスの出身で何かを売り歩いている行商人だった。
この男はミ・カシータに一週間ばかり宿泊していた。
管理人のアレハンドロと他愛の無い話をしているところに、彼が扉を開けて入って来て、宿泊の手続きをした。
私は入口近くの部屋に住んでいたが、彼の部屋は一番奥の部屋となった。
翌日、学校から私が戻ると、奥の部屋の前に居た彼が私を手招きして呼んだ。
普通は、警戒して断る私であったが、その時は何か用事かと言いながら、彼に招き入れられるままに彼の部屋に入った。
彼は日本人と話がしたいので私を呼んだ、ということだった。
暫く、メキシコは好きか、とか、日本はどんな国なのだ、といった一般的な話をしていたが、どうも彼の様子は変だった。
眼の焦点も合わないように思えるし、声もとても甲高く擦れていた。
その内、不意に彼は告白した。
マリファナを吸っているとのことだった。
良いマリファナがあるから、私にも吸わないかと彼はしきりに誘った。
断った私を彼は不思議そうに見詰め、いろいろとマリファナの効用を私に話して聞かせた。
マリファナは麻薬では無いこと、習慣性をもたらすような禁断症状も無いこと、何も食べなくとも空腹感が無いこと、とてもハッピーな気分になること、などを細々と話した。
私は、メキシコ革命戦争当時のパンチョ・ビリャ軍の唄、クカラチャ(ゴキブリ)の歌詞を思い出した。
その唄にはこんな一節がある。
『ごきぶりはもう歩けない。なぜならば、吸うマリファナが無くなったから。云々』という一節である。
この唄では、マリファナを精神的にも肉体的にも元気づかせる特効薬として位置づけられている。
その反面、マリファナを常用すると、気分が妙に満たされ、現状是認となり、苦労して働こうという意欲が次第に失われるということもどこかで聞いたことがある。
マリファナは法律の是非はともかく、無害、有害の狭間を行く両刃の剣なのであろう。
暫く、彼と話した後、用事があるからと言って、彼の部屋を出た。
何だか、ひどく疲れたような気分だった。
彼は一週間ほど滞在した後、ミ・カシータを出て行った。
私が滞在した期間では、彼に再び会うことは無かった。
彼はマリファナを売っていたのかも知れない。
第四話 老婦人
メアリーさんという老婦人が宿泊していた。
米国人で、年は知らないが、六十歳は過ぎていると思われた女性であった。
アレハンドロの話に依れば、スペイン語の勉強のために三ヶ月という期限でこのアパートの部屋を借りたということであった。
結婚はしているが、夫の承認の上で独りメリダに来たということも聞いた。
眼鏡をかけた白人の女性で背が高く、理知的な顔立ちですらりとしていた。
スペイン語の勉強の為、いくら陸続きとは言え、外国に婦人が一人で行く、ということは到底日本では考えられないことだろう。
それは、メキシコという国が外国人にとって安全な国と目されていることの証明にもなった。
当時のメキシコは銀行の前には自動小銃を構えたガードマンがいたにせよ、私たち外国人には安全な国であった。
盗難とか恐喝とか嫌なことに巻き込まれた経験は私には無かった。
セントロの公園のベンチに鞄を忘れた時も、数時間後に慌てて取りに行ったら、そのベンチに座っていた人が、これかと言って、ベンチの片隅の鞄を指差した。
彼女の話に戻ろう。
彼女はメリダのセントロにある語学学校に通った。
外国人向けの学校だった。
彼女は学校から帰って来ると、以前の私のように、アレハンドロの机の前に腰を下ろし、あれこれアレハンドロと話すようになった。
修得の対象とする言葉を話す国で暮らし、語学学校で勉強し、且つ現地の人と話をする、これは語学の上達の一番の秘訣であることは言うまでもない。
更に、その国の恋人をつくれば完璧であったろうが、私の場合も彼女の場合もその要件は満たさなかった。
学校が休みの週末などは、私が暇そうにしていると、彼女は私にも話しかけて来た。
スペイン語で難しい表現の内容は、拙い英語で彼女と話した。
私に取っては、英語学習の歴史の方がスペイン語学習の歴史よりは古く、語彙も英語の方が豊富だった為、つい英語を話すこととなった。
下手な発音の英語に彼女は根気良く付き合ってくれた。
聞く方が本気で聴いてやろうという態度があれば、結構コミュニケーションは成立するものだということを私は彼女から学ぶことが出来た。
或る時、彼女から家族の写真を見せてもらうことがあった。
その写真には男と女という二人の子供とご主人が写っていた。
娘は結婚し、先日子供が生まれたとも話していた。
私はお祖母ちゃんになったのよ、と嬉しそうに話していた。
ご主人が、迎えに来た。
私はその時、彼女の滞在が三ヶ月になっていたのを知った。
いかにも、理解のありそうな優しいご主人で、私は彼女が幸せな結婚生活をしていることを改めて実感した。
彼らは、アレハンドロにタクシーを呼んでもらい、メリダの国際空港に向かってこのアパートを去って行った。
メキシコシティ経由でロサンゼルスに帰るのだそうだ。
私とアレハンドロは見送った。
少し、淋しい気がした。
第五話 子持ちの女
イサベルという若い女が宿泊していた。
子持ちの女で、アレハンドロの話に依れば、どこかの商店でレジをやっているとのことだった。
子供と一緒に住む家を探しており、その間このミ・カシータに居を構えたということだった。
子供は一人で十歳くらいの娘だった。
人懐っこい子供であったが、アレハンドロの話では、知能が少し低いということだった。
私にはそうは見えなかったが、会話をすると判るのだそうだ。
その子は極端に首が短かった。
子供の頃から、ハンモックで寝る習慣がある子供は程度に差こそはあるが、一様に首が肩にめり込むような感じで短くなってしまうということを私はどこかで聞いたことがあり、その女の子を見て、思い出した。
確かに、メリダみたいに堪らなく蒸し暑い夏はハンモックを家の壁に吊り下げて寝た方が涼しいことは間違い無かったが。
現に、私の部屋の壁にもハンモックを吊り下げることが出来るように壁に頑丈な輪が二箇所相対するように取り付けられており、私も時々は、市場で値切って買ったハンモックを吊るし昼寝をすることもあった。
その女の子の母親のイサベルは三十前後の美人だった。
官能的な顔立ちと姿態で、通りを一人で歩けば、道の傍らに屯する男たちから口笛を軽く吹かれるほどの美しい女だった。
時々、男を連れて、アパートに帰って来た。
入れ替わり立ち代りというほどの男性関係では無かったが、あまりアパートに居ない私が気付くくらいだから、いつも居るアレハンドロにとってはかなり目立った様子だったのだろう。
滅多に、人の悪口を言わないアレハンドロですら、子供が可愛そうだ、と私にこぼすくらいであった。
子供は部屋の外で遊んだり、アパートの門の傍の石段に腰を下ろし、漫画なぞを見ていることが多かった。
ひょっとすると、母親が男を連れて戻った時、娘は自然と部屋の外に出るようになったのかも知れない。
私も時々は、読み終わった漫画の小雑誌をその娘に読むかいと言って渡した。
都度、その娘は人懐っこい微笑を浮かべて、グラシアスと言って私の手から漫画を受け取った。
メキシコの漫画は日本の漫画と違って、ストーリー性はあまり無く、それほど面白いものでは無かったが、スペイン語の勉強になると思って、私はセントロに出る度、キオスクみたいな街角の商店で何冊か買って来るのが習慣となっていた。
いつの間にか、その親子はアパートから居なくなっていた。
アレハンドロに訊いたら、新しく住む家が見つかり、数日前にアパートを出て行ったということだった。
母親のイサベルは結婚していたが、浮気性のため、夫から追い出された女ということだった。
男の子は夫が引き取り、女の子はイサベルが連れて夫の家から出たということもその時聞いた。
その後、セントロを歩いていた私はイサベルとその女の子の姿を見た。
イサベルと女の子が手を繋ぎ、その女の子のもう一つの手を男性の手が繋いでいた。
私は仲良く手を繋いで歩く三人の姿をいつまでも見送った。
安堵した思いだった。
第六話 日本女性
ある時、日本から若い女性が数日間宿泊したことがあった。
セントロの観光案内所で安く泊まれるところとして紹介され、ここに来たという次第だった。
アレハンドロが部屋に居た私を呼び、彼女に引き合わせてくれた。
同じ日本人だろう、話をしたらどうか、ということだった。
私には学校に日本人の留学生仲間が居り、別に日本人に「飢えている」ということは無かったが、アレハンドロにしてみれば、メリダでは日本人が珍しいだろう、話もしたいだろうとの配慮であった。
迷惑そうな顔も出来ず、私は彼女と少し会話をした。
看護婦をしているとのことだった。
私の眼には二十台の後半の女性のように見えた。
病院は辞めて、貯金したお金で少し外国旅行を楽しんでいるということだった。
私は彼女を連れて、メリダのセントロに行き、観光の名所を一応案内した。
モンテホの館、市庁舎、カテドラル(カソリック寺院)といったところを案内した。
夕方、少し早めの夕食を共にして、ミ・カシータに戻った。
彼女は彼女の部屋に戻り、私はアレハンドロと話した。観光名所を案内したよ、と言うとおおげさに喜んでくれた。
同じ日本人同士、仲良くしなければならない、と小学生に語りかけるような口調で私に言った。
夜、カルーアという濃厚なコーヒー・リキュールを牛乳で割って飲んでいると、ドアが静かにノックされた。
アレハンドロはもう自宅に帰り、変だなぁと思いながら、ドアを開けると、昼間の彼女が居た。
男の部屋を夜秘かに訪ねる女。これは、危ないな、と思いながらも訊ねてみると、予想外の答えが返って来た。
何と、部屋に蠍がいると言う。
退治して欲しい、と言う。
拍子抜けしながらも、彼女の部屋に行ってみると、部屋の片隅に黒い蠍がいた。
十センチほどの蠍だった。
私を見ると、尻尾を立て、爪を構えてきた。
私は静かに履いていたサンダルを脱ぎ、電光石火の早業でその蠍目掛けて打ち下ろした。
見事に蠍に当たり、勝負はついた。
私は蠍をティッシュに包み、床に飛散した蠍の体液を拭き、彼女におやすみを言って、自分の部屋に帰った。
我ながら、カッコ良く、振舞ったものと秘かに自己満足した。
その後、彼女とは会わなかった。
アレハンドロの話に依れば、マヤの遺跡、ウシュマルとかチチェン・イッツァを見物に行き、私が学校に行っている間に引き払ったということだった。
私に宜しく伝えて欲しい、とアレハンドロに言付けていた。
メリダの後、カリブ海の島を旅するとのことだった。
今、彼女の思い出の中に、私は居るだろうか。
第七話 建築家
若い建築家が長期間宿泊していた。
メキシコシティ出身の若い建築家でメリダで大きな仕事があり、半年ほど滞在するとのことだった。
UNAM(メキシコ国立自治大学)というシティにある最高の大学を出た建築家であった。
実は、彼の部屋は私が見たところでは一番暮らしやすそうに思われた部屋で、彼が出て行ったら、私に貸すことと話はついていたのであるが、彼は予想外に長期滞在し、私の思惑は外れてしまった。
残念な話であった。
彼の部屋はほぼ正方形で、前半分がパーティーを開くのに良さそうに思えたからだった。私は日本人留学生を集め、フィエスタ(パーティー)を開きたかったが、あてがわれた
部屋はパーティー用の空間が非常に狭く、やたらベッドが置いてあるスペースが広かった。
どうも、パーティーには向いていない部屋と思われた。
彼はメリダの人間から見たら、エリートであり、アレハンドロも敬意を払っている様子であった。
メリダにはユカタン州の州都ということで、ユカタン州立大学があったが、やはりメキシコシティにあるUNAMの方がずっと格上であり、UNAM出ということが箔となっていたようである。
医院も、UNAM出の医者の場合は、医院の看板にUNAM卒業と書いてあるほどであった。
日本なら、さしずめ、東京大学医学部出身と医院の看板に書くようなものかと思われた。
そのエリートの彼に、修理工まがいのことをしてもらったことがある。
或る時、旅行から帰って、シャワーを使ったら、お湯が出なかった。夜ということで、アレハンドロも帰ってしまっているし、どうしたものか、部屋を出て管理人室あたりをうろうろとしていた。
丁度、彼がアパートに戻ってきて、私の様子に不審を感じたのであろうか、どうかしたのか、と訊ねてきた。
お湯が出ないので困っていると話したら、頷いて任せてくれ、と言う。
見ていたら、彼は門の後ろの石壁にするすると上り、何やら操作していた。
もう、大丈夫と思うので、シャワーを出してごらんと言う。
部屋に戻り、シャワーを出し続けたらお湯になってきた。
彼にそのことを告げると、笑いながら、ボイラーの種火が消えていたのだと言う。
おやすみなさい、と言いながら彼は自室に入って行った。
気のいい奴だと思い、私も何だかいい気分に満たされたものだった。
彼は数ヶ月して出て行ったが、私は引越しをするのが面倒となり、部屋は変わらなかった。
しかし、今でも少しは彼の部屋に住んでみた方が良かったかな、と残念に思っている。
第八話 ベトナム帰り
フェリーペというアメリカ人が居た。
学校の博士課程で勉強している米国人で私より三歳ほど上だった。
専攻は、マヤの人類学であった。
米国の大学を出ていたが、奨学金を貰って、ユカタン大学の人類学教室で学んでいた。
三年ほど暮らしているという話でスペイン語はペラペラだった。
米国では、スペイン語は第一外国語であり、馴染み深い言語である。
彼はベトナム帰りの元兵士だった。
このことは、彼の口からでは無く、私たちと知り合いになったメキシコ人学生から聞いた。
しかし、彼はベトナムでの経験は一切語らず、私たち日本人学生とは麻雀とかブリッジに他愛なく興じていた。
ブリッジに関してはいわゆる有段者の資格を持っていたが、麻雀に関してはズブの素人で遊び方は私たち日本人が教えた。
好きこそ物の上手なれ、という諺通り、彼は麻雀に凝った。
数ヶ月で私たちと同等のレベルにまで上達した。
ただ、彼は金が無かった。
奨学金は微々たるもので、宿泊は学校の物置部屋或いは屋根裏部屋といったような粗末で狭い部屋に住んでいた。
食事も粗末なものを食べていた。
しかし、車はフルサイズ・カーというのであろうか、シボレーの大型を持っていた。
私たちは彼の車でいろんなところに旅行をした。
その時は、ガソリン代、彼の食事代は全て私たちが負担した。
暗黙の了解事項だった。
彼は、私たちにとっては英語とスペイン語、両方の先生となってくれた。
特に、マヤの遺跡に関しては当然のことながら詳しく、パレンケ遺跡、ウシュマル遺跡、チチェン・イッツァ遺跡、とかいった遺跡を案内してくれた。
時には、遺跡の発掘調査の現場にも案内してくれたこともある。
彼は、実に紳士的な男で、日本人に対しても偏見無く、付き合ってくれた。
メリダの楽しい思い出に彩りを添えてくれた男だった。
しかし、残念なことに博士課程は途中で退学し、米国に帰ってしまった。
博士にはなれなかったようだった。
メリダの冬、十二月のクリスマスの前に彼は車で米国に帰って行った。
私たちはセントロのレストランで彼の送別会を開き、五ヶ月間の交遊を惜しんだ。
その後、彼とは毎年一度クリスマスカードの交換を行なうだけの関係となっている。
今も独身で、ワシントン州の小さな町の小学校でスペイン語を小さい子供に教えて生計
を立てているとのことである。
数年前に写真を貰ったが、頭髪も随分と薄くなり、歳月の厳粛な重さを感じた。
完