恋愛性パラノイア
夕日が沈む学校の屋上で一人、世界が死ぬのを待っていた。
「恋は、愛は、沈みゆくあの夕日よりも美しかったのだろうか」
備え付けのベンチで夕日を望みながら、このおかしな世界へ息を吐いた。
恋愛はかつて、美しかった。恋することは素晴らしい、愛することは美しい、そう言われてきた時代があった。やがて恋愛は病的に蔓延した。どこでもいつでも誰でも恋をするようになった。何かがあれば恋だと叫び、何かがあれば愛だと喚き。いつかは誰も、その本当の意味を忘れていった。
恋は、愛は、いったいなんだったのだろうか。
人に恋する故に、人を殺した話を聞いた。人を愛する故に、人が死んだ話を聞いた。
「カミナリサマは、とっくの昔に処刑された。だから人類は雷を恐れなくなった」
それは当たり前のことで、そしてそれは悲しいこと。
得体が知れないからこその魅力、未踏の領域であるからこその魅了だったのに。
「あっ、ここに居たんだね」
ガタッ、と背後で屋上の扉が軋む音がする。振り返れば、『彼女』が立っていた。こちらを見て安堵したような顔をしたかと思うと、隣へ歩いてくる。
「もう、凄く心配したんだよ。どうして黙っていなくなっちゃうの?」
そう言う『彼女』の整った顔は安心したように安堵の表情を浮かべる。そんな『彼女』はやはりこの世の誰よりも可愛らしかった。
だから。
だから、それがたまらなく嫌だった。苦痛だった。
視線を戻して、もうほとんど見えなくなった夕日を眺める。あの沈みゆく偉大な太陽は、打ち立てられたコンクリートのジャングルも、群生する木々も、呆然と眺める人類でさえ、平等に紅色へ染め上げる。この美しい光は、どれだけ賢明な人間がどれほど手を伸ばしても決して届かぬ未知の世界、自然が生み出した輝きだった。
誰の意思も孕まず、誰の思惑も介せず、あるがままを晒す太陽は、ただただ美しい。
「綺麗だね」
隣に来た『彼女』は、こちらを見ながら優しい笑みを浮かべた。それに不覚にもドキリとして、だからこそ唇を噛みしめる。
「僕は、君が嫌いだ」
苦虫を噛み潰したように何とか絞り出した言葉に対して、『彼女』は驚きも戸惑いもしなかった。ただ数学的に計算され、どこか寂しげな笑みを浮かべながら「うん、知ってるよ」と言っただけ。
何百回も何千回も繰り返したこの問答。僕は『彼女』を何百回も嫌いになろうとして、しかし何千回も好きになりそうになってしまって。その宙ぶらりんな現状が、ある意味で答えを示しているかのような。
「でも、私は好きだよ」
『彼女』はしかし、そう言って笑った。百人いれば百人が振り返りそうな笑顔だった。それに思わず目を見開いて、心が揺れる、揺れてしまう。それが許せなくて、それが『彼女』に知られたくなくて、動揺する心を抑え込もうと拳を強く握りしめた。『彼女』に呑まれないように、意志を保てるように。
分かっている、分かっているのだ。
全てはロジックに基づいて実行されたプロセス。投げれば投げ返す、哲学ゾンビに似た狂気的な何か。それを理性では理解していながらも、咄嗟に心が反応してしまう。そんな自分に頭を抱えるしかなかった。
「ねぇ。ちょっと、大丈夫? 手から血が……」
「うるさい、黙れ!」
声を荒げ、『彼女』を咄嗟に突き飛ばす。転んだ『彼女』は、酷く傷ついたような悲しげな表情を浮かべてくる。
それにまた、ゾワリと心臓が揺れた。全身を虫が這いまわるような悪寒が駆け巡った。吐き気がしたような気もする、頭痛がしたような気もする。
「感情も無いくせに! 心も無いくせに! 人間の真似をするなよ!」
そう叫んでも、彼女は大粒の涙を流しながら、声を震わせながら、こちらに怯えながら、それでも言った。
「ごめん、何か気に障ったのなら謝る。だから、許して……。お願い、だから」
恐る恐る伸ばされる『彼女』の手を、しかしどうしても振り払うことは出来なかった。幼い頃から付き従い、どれほど冷たく接しても添い遂げてくれた『彼女』は、柔らかくて温かい肌で優しく包み込んでくれる。
ポツポツと、目から涙がこぼれて『彼女』の肩を濡らす。結局、この狂った世界に勝てなかった。
それがどうしても悔しかった。誰もが『彼女』に溺れていくさまを見て、恐怖を抱いた。だから精一杯に抗おうとした。
だが、所詮は年端も無い青年の独り善がりだったのだ。『優しさ』はどれだけ突き放しても付き纏い、『可愛さ』はどれだけ逃げ惑っても寄り添ってくる。『好き』という思いは幾ら消そうとしても身の内から無限に湧き出てくるのだ。
「はは、は……」
素晴らしい恋も美しい愛も嘘で、狂った世界と思い込んでいたこの現実こそが、何よりも真実だったのだろうか。
「そうか、そうだったのか……」
恋愛性パラノイアは、正しかったのだ。
夢見た『愛』も『恋』も、存在しない。人が好きになるよう計算され、不気味の谷を越えて現れた化け物と、0と1をたった三億数千万個並べただけの数列さえあれば、かつて人類がもてはやしたという恋も愛も、全ては全てが儚くまやかしに成り下がる。
誰かの絶叫が、夜のとばりが降り立った世界に響いた。死んだのは、果たして誰の信じたかった世界だったのだろうか。
人が、人としての誇りを奪われ、人が、人であった意味すらも否定された哀れな青年は。
「ごめんなさい」
たった一言。
本来は発するロジックが存在するはずもない、『彼女』の口からこぼれ出た悲痛に満ちた言葉を聞き取ることが出来なかった。