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医療系短編

小さな命の物語

作者: 朝樹

夕凪もぐら様主催の勉強会短編企画「とこしえの夏唄」参加作品です。

よろしくお願いします。



「妊娠十九週!?」

「正確には十九週六日。明日から二十週です」

「変わらん!」


 二十一週と二十二週ではものすごく違う。

 だけどそれ以下では一緒なんだ。




 何の話かと言うと、今日入院してきた脳炎の患者さんである。




 意識障害を主症状とするこの病気は治療が遅れれば後遺症を残すことが多く、早期発見できても決して油断の出来ない、命の危険のある怖い病気だ。

 なので、可能性のある原因菌に対して抗ウイルス剤を初め抗生剤などを絨毯爆撃をするようにこれでもかと点滴で入れる。

 

 だけど。


 ……妊婦さんだなんて。


 妊娠中は使用薬剤がものすごく限られる。

 胎児に影響がないか確認されている薬剤だけで脳炎の治療なんて出来るはずがない。




 



 私が働く救急救命センターのICUには様々な『重症患者』さんが入院する。

 救急車で運ばれて、一般病棟での入院が難しい重症者はこの救命センターICU(集中治療室)か、もう少し症状が軽ければ扉一枚向こうのHCU(ハイケアユニット)に入院することになる。

 このため入院患者さんは心筋梗塞などの内科疾患や、交通事故などの外科系など多岐にわたる。



 共通するのは、『命の危険のある人たち』という点だけだ。



 そんな中でも、さすがに妊娠中の脳炎は初めてだ。


 妊婦さんの入院自体はそんなに珍しいことではない。

 この病院は大規模なNICU(新生児集中治療室)を持っており、ハイリスクの妊婦さんを多数フォローしている。

 周産期の脳出血などはよくあるケースだ。

 出血の場合は安静保持が第一なのだが、脳炎となるとそうはいかない。



 私はその患者さんの指示書を見た。

 

 通常の脳炎の患者さんと変わらない量の薬剤が投与されている。



「……十九週…… ってことか」

「はい。……母体優先です」


 十九週の胎児はまだ法的に人権が認められていない。


 人工妊娠中絶適応の範囲内なのだ。

 これが二十二週に入ると中絶は出来なくなることはもちろん、NICUの入院も可能になる。

 それでも二十二週で出生すれば命の危険や、重度の後遺症も覚悟しなければならない。

 だけど、母体の治療を二週間待つなんてできない。




 つまり。




 救命センターは胎児を諦めたんだ。

 









「天川さん大丈夫ですか?」

「あ、うん。大丈夫だよ。……とにかくお母さん助けないと十九週の子もどうしようもないもんね。清水さんは受け持ち?」

「はい。正直荷が重い気がしますが頑張りますのでよろしくおねがいします」

「うん。一緒にがんばろ」


 彼女は清水幸知(しみずさち)。今年の4月に救命センターに異動になってきた看護師だ。元々の専門は循環器。救命センターで循環器に強いことは大きな武器になる。

 そして私は彼女の教育担当看護師だ 。

 移動してきた看護師にはそれぞれ担当がつく。一人で大丈夫だと思えるまで二人三脚でやって行く。


 私――天川晴夏(あまかわはるな)は救命センターに来てから四年目。かなり長くいると思うが、ここに来る前はNICUにいた。


 なので、今回の様な胎児の事を考えないケースはとても辛い。

 清水さんもそれを心配してくれたんだろう。


 だけど、とにかく母体を助けない事には始まらない。


 

 私達のやることは、いつだってひとつだ。



「助けようね」

「はい」



 私は、二か月前と比べ格段に力強くなった清水さんの瞳を心強く思った。

 

 この日、六月一日は私は夜勤で、日勤の清水さんから申し送りを受けた。

 思ったよりも悪い状況に、思わず眉間にしわが寄る。

 それでも、だ。


 それでも、母体を助けない限り先は無い。







 その日から、私達救命センターチームと脳炎との戦いが始まった。


 患者さん――七夕 巴(たなばたともえ)さん、二十八歳。

 上に五歳の男の子のいる一児の母だ。

 入院前日に頭痛を訴えるもそのまま就寝。

 翌日、六月一日には目を覚まさなかった。


 この病気の進行は驚くほどに早いこともある。


 すぐに救急要請をした夫の(れん)さんだが、近所の病院に神経内科がなかったためこの病院に搬送された。

 この病院に搬送されてからは意識は一度も戻っておらず、呼吸も不安定になり始めたため人工呼吸器を装着中だ。

 首にある大きな血管からは、中心静脈カテーテルと言う太い点滴用の管が入っており高濃度の輸液や沢山の種類の薬剤の点滴に使用されている。

 かかりつけの産婦人科のクリニックからは、既に情報提供がされており前回受診時までは何の異常もないことが分かっている。

 

 救命センターと産科の医師たちは連携が良い。

 産科病棟の助産師たちのバックアップも心強い。

 彼女たちは連絡すれば何時でも来てくれる。

 連絡しなくても日中一回は胎児心音の確認に来てくれる事になっている。





 ドッドッドッドッド……


 成人の心音の倍近い数の心拍数。

 胎児心音の特徴だ。


「うん、今日も元気だね」

 

 NSTと呼ばれる胎児の検査用の器械を操作しているのは助産師の日向菜月(ひゅうがなつき)。私の同期の友人だ。夜勤中だったが、いやな顔一つせずに来てくれた。


 このNSTと言う器械。NSTノン・ストレス・テストは胎児にストレスがないか、つまり子宮収縮の有無や胎児の心拍数を調べる検査。


「良かった。……正直心配なんだ。使ってる薬の量が量だしね」

「うん、でもその薬も『胎児に影響の出る可能性は否定できません』ってヤツっでしょ。使用症例が無いだけで影響が出る事が分かっている訳じゃないよ」


 私の信頼する助産師は強い目をしてそう言った。


 そうだ。

 確かにそうだ。

 NICUにいた時に散々見てきた文言じゃないか。

 単に使用症例が無いのだ。


「とにかく二十二週までは…… ううん、二十二週じゃ助けられない。出来るだけ長く……」


 私はそんな菜月に、同じように見えると良いと願いながら、強い目をして頷いた。






 そんな緊張感の続く全身管理を続けながら三日が過ぎた。

 母体の状況は大きく変わらない。

 意識も戻らないままだ。

 でもこれは呼吸管理をするにあたって、人工呼吸器の挿管チューブが苦痛にならないように眠くなる薬を使用しているので、意識の正確な評価はできていない。



 同時進行で家族への説明も行われている。

 母体の全身の状態の説明はもちろんだが、今回のケースでは一番重大な選択を夫にしてもらわなければならない。




 人工妊娠中絶の手術を行うかどうかだ。


 


 妊婦に対し、使用症例の少ない薬を多量に使用していること。

 そのために奇形や発達障害などを持った子が生まれる可能性もあること。

 この先、母体の全身状態が悪化することがあれば、中絶することが救命の最後の手段になるかもしれない事。


 

 ……この決断は、胎児を完全に諦めると言うことだ。

 簡単に出る結論ではない。

 ただ、中絶手術ができるのは二十一週六日までだ。

 二十二週に入ると、法的に中絶は出来なくなる。



 リミットまでは後十日。



 今日も、胎児心音は元気にリズミックな音を聞かせてくれている。


 夫の蓮さんは、気の毒なほどに憔悴していた。

 顔色は悪く、目の下にはくっきりとクマが出来ている。


 毎朝、出勤前だろう六時頃にICUに来て、奥さんの手を握りながら一時間程を過ごす。

 時々涙ぐんでいるが、みんな申し合わせたように二人きりの空間を作るようにしている。


 どんな答えを出すのだろう。

 この優しげな、どこか線の細い気のする人は。







 リミットが後七日と迫った日。

 蓮さんから回答があった。


「中絶の手術をして下さい」


 と言う物だった。








「うそ…………」


「本当です。昨日の病状説明の時、旦那さん、聞こえるか聞こえないかと言う小さな声でそう言いました」

 そう答えたのは、清水さんだ。

 担当看護師は、どうしても出られない理由がない限り病状説明には同席する。


「理由は?」

「そこまで話してくれませんでした。それだけ言うのでいっぱいいっぱいみたいで」

「……まぁ、そうよね……」


 本来医療スタッフが患者や家族の選択に文句を言う資格も権利もない。

 その先の未来まで責任は持てないからだ。

 ここで産むことを勧めても発達障害などが出た場合や、最悪母体に何かあった場合責任なんて取れるわけがない。


「だけど…… ここまではとりあえず順調なのに……」


 日々、聞かせてくれる胎児心音。

 元気に生きている証。


 なのに……



 ああ、私は必要以上に胎児に感情移入してしまう。

 これでは看護師失格だ。

 この場合は全力で夫の蓮さんの望みをかなえなくては。

 

 母体の救命。


 これは何より優先させる。

 その方針は最初から決まっていたはずなのに。


 私はこのまま中絶手術を行わず、あわよくば両方助けられないかと思ってしまっていた。

 だけど蓮さんは、母体にそのリスクを負わせることを選択しなかったのだ。

 私達は、その選択を尊重して……



 …………って。


 割り切れる、

 

 はずなんて、

 

 無い。



 私は小児科にもNICUにも長く勤務していた。


 ダメだ。


 このままでは私は旦那さんを責めるような言葉を口にしてしまうかもしれない。


 やっと出した答えを否定してしまうかもしれない。


 それは、決してやってはならないことだ。





「……ごめん清水さん。私今日は外来行くわ。師長にお願いしてくる」


 この救命センターは救急外来と同一の看護単位だ。

 ICU・HCU・救急外来との三か所を何処に割り振られても良いように教育されている。

 私はICUがメインだが、救急外来もこなせる自信はある。


「……分からないことがあったら電話して。ゴメン。だけど今回は逃げるよ」

「……天川さん…… 私も……何て言ったらいいか分かりません……」


 顔を上げると清水さんの、今にも泣きそうな顔。

 薄く涙すら浮かべて、置いて行かれるのを恐れる小さな子供の様な。



 ……そうだ。


 私一人だけ逃げるわけにはいかない。



「ごめん。そうだよね。二人で頑張ろう」

「すみません…… 私が受け持ちなばっかりに……」

「違う。……ごめん、ホントに私が悪かった。清水さんが受け持ちだったから、私が関われるんだ。一緒に旦那さんの力になろう。中絶のオペを希望する理由はまだ聞いてないんでしょ?」

「はい、それはまだ……」

「その辺とかもはっきりさせて、例えば経済的なこととか心配してるんだったら相談にのれるし……」

「……そうですね」

「それに、母体の方もまだ油断はできない。気合入れて行こう!」

「はい」



 駄目だ駄目だ。


 まず、私が逃げちゃだめだ。

 何やってんだよ天川晴夏!

 今、胎児の事を守れるとしたら私だけじゃないか!



 今日は二十週三日。

 推定体重三百十グラム。


 まだ、法的には人権のない小さな命。




 中絶を否定する訳じゃない。



 でも。


 だけど。


 ここで元気に生きてる。


 望んで巴さんの所に来た命。



 ……理由もはっきりしないまま、手術なんてさせられない。







 産科の医師たちも意見は同じようだった。

 巴さんの治療には私達救命チームと、産科・神経内科が合同で行っている。

 救命チームは連携もよく、救命医たちは私達看護師の意見もよく聞いてくれる。

 実際に一番近くでケアをして、呼吸・循環の管理を行っているのは看護師だ。

 

 この呼吸・循環の集中管理は一朝一夕で出来るものではない。

 個人差もあるし、薬剤の反応もそれぞれ違う。

 その、ほんの小さな差を見逃さず、対応できるからこその救命看護師だ。


 産科医と、救命の担当看護師の意見が通って巴さんの中絶の手術はリミットである二十一週六日ギリギリまで待つことになった。

 実際問題として手術室の空きもなかった事もある。

 その事にホッとしつつ、旦那さんと何とかゆっくり話す時間を作らなければならない。



 朝晩欠かさずに、巴さんの手を握って過ごすあの人が、巴さんの子供をいらないと思ったとは考えられないからだ。








「手術中止?」

「はい。やっぱり生まれて来て欲しいって」

 嬉しそうな笑顔で清水さんがそう報告してくれたのは、リミットまで五日のことだった。


「……一昨日だよね?手術するって言ったの」

「はい。そうですけど…… やっぱり悩んでいるみたいで」

「そりゃぁ悩むでしょうけど」


 こう言うケースは結構ある。

 看取りの時などもそうだ。

 一度決断しても、やっぱりその決断は揺らぐのだ。


 人間だから、当たり前と言えばそうなんだけど。




 ただ、……こう言うケースは、この「ためらい」を繰り返すことが多い。





 案の定、翌日にはまた手術がしたいと言われた。

 このままでは駄目だ。


 これはこの人の「決心」ではない。

 このままではどちらを選んでも後悔する。

 そんな後悔はしてほしくない。






「結局どうなるんでしょうね……」

 一緒の夜勤明け、少しフワつく足取りの私とは対照的に少しハイな清水さんが呟く。

「どうもこうも、現状は悩んでる過程を聞いてるだけだよね…… 結論はまだ出ていない」

「どうしたら出るんでしょうか。結論って」

「待ってるだけじゃ出る訳ないわよ。……出してもらわないと」

 

 どんな残酷な結末だって、出さないと先に進まない。

 坐り込んで泣いてたって、時間は流れて行くんだ。

 這ってでも進まないと。

 


「……神なんていやーしねー……」


 救急外来の看護師たちが良く言っている言葉だ。

 ……ほんっと、真実だわ。


 外に出ると結構な雨が降っていた。


「そう言えば梅雨入りしたんですね……」

「そんなことも言ってたかなぁ」

「……巴さんが泣いてるのかなぁ……」


 そう呟く清水さんに、神様とやらはそんなに優しい事はしてくれないよ、なんて言えなかった。







 リミットまであと三日。

 

 このままでは話は進まない。

 私達は再度、旦那さんへの病状説明を行うこととなった。


 手術の日が決まったことが、産科の主治医より旦那さんに伝えられる。

 その説明には清水さんだけでなく、私や救命の担当医も参加した。 


  

 手術日。



 その単語が出た瞬間、蓮さんは弾かれたように顔を上げた。

 その目には涙が膜を張っている。


 ああ、やっぱり望んでなどいないんだ。


「この日を逃すと、手術は出来ません。手術しても、良いんですね」

 産科医が優しい声で確認する。

 まだ若い担当医だが、後ろに産科部長が控えている。安定の布陣だ。


 蓮さんは、何度も何か言いかけては止めるという動作を繰り返した。

 そしてくぐもった声で一言だけ、叫ぶように言った。





「誰が育てるって言うんですか! 妻が、妻があんな状態なのに!!」






 それだけ言うと、静かに肩を震わせて泣いているようだった。


 この人は、きっと巴さんの側にいる間声を出せずに泣いていたのだ。

 毎日。

 ずっと。


 だけど養育の問題だったら解決は簡単だ。

 ならば助言を、と隣の清水さんを肘でつつくと、彼女は思いっきりもらい泣きしていて何か話せる状況ではないようだ。



「七夕さん、赤ちゃんのお世話をする人がいないから…… 中絶の手術を?」

「……そうです。情けないお話ですが、彼女の母には兄の面倒を見てもらっていて、それだけで精一杯なのは分かります。うちの方は父の認知症が最近悪化していてとても……」

「そうですか…… 早く相談していただければ、そんなに悩まずに済んだかもしれません。お母さんが養育が難しい時には乳児院の利用が出来ます。もちろんお母さんが養育できるようになったら引き取れます。そうでなくとも一番手のかかる間だけ、とか就学前までなどその辺りは話し合い次第でどうにでもなります」


「……そんな、制度が……?」

「はい。NICUからは良く使用する制度です」


 ……赤ちゃんを置いて入院費も払わずに逃げ出すお母さんとか、そう言う人の方が多いんですけど。

 でもそこまでは言わない。

 っていうか言えない。



 蓮さんは茫然としたような表情のまま席を立った。

 

「もう一度、考えます。……その制度の事を、もっと教えてもらえますか?」

「もちろんです」




 私は産科医に一礼すると、蓮さんと一緒に巴さんのベットサイドに行く。

 ここが一番話しやすいだろう。


「私はこの病棟に来る前はNICU、いわゆる未熟児室にいたんですよ」


 そう前置きして、NICUで養育が出来ない症例にどうやって対応してきたか説明した。

 途中で産科の菜月も呼んだ。

 乳児院だったら彼女の方が詳しい。


 話が進むにつれて、蓮さんの表情が明るくなっていく。

 今度こそ、ホントの「決心」をしてくれると良いな。


 菜月は一通り話をした後、

「ついでに今日の分のNSTやって行くね」

 と言って、巴さんのお腹にセンサーを貼り始めた。


 いつもやっていることなので、私は疑問も持たずに見守った。




 ドッドッドッドッドッドッド…………




 いつもと同じ、元気なリズム。

 ああ、今日も元気でいてくれる。

 この心音を聞くと安心する。

 母体は大変な状況だけど。

 その影響で胎児ちゃんも、いらない薬が山のように入って来て負担だろうけど。

 でも頑張ってくれているんだ。



「うっ…… く…… うぇっ…… 」



 ふと見ると、蓮さんが自分の口元を押さえ、必死で泣き声を我慢しているようだった。

 



 そうか、……心音。





 菜月がこっちを見てニッと笑った。

 確信犯か、こいつ。




 私は蓮さんにガーゼを渡して

「ここでは我慢はしなくていいですよ」

 と、背中をさすりながら言った。


 とたんに蓮さんの泣き声は大きくなり、次第に号泣に近い声になって行った。


 途中で清水さんが、巴さんの処置などを行っていたが、私はひたすら蓮さんに付き添い今までどんなにつらかったか、どんなに悩んだかを聞いた。





「妻はこんなになって、目が覚めるかどうかも分からなくて」


「ここで赤ん坊が生まれても、自分が育てられるわけがない。上の子の時も手伝えなかった」


「だけど、だけど…… 心臓の音が…… こ、殺すなんて……」


「妻は、あんなに、この子が生まれてくるのを楽しみにしていたんです」


「お腹をさすりながら、こんなに元気なんだから、また男の子だろうって。女の子も欲しかったなんて……」


「だけど。だけど…… 現実には自分には仕事もある。育休だって取れるような会社じゃない」


「だけど妻がもし目が覚めたら、自分の選択をどう思うか考えると……」


「それでも自分は妻を守る事を最優先にしたい!」







 今まで言えなかった分だろうか。

 蓮さんは堰を切ったように沢山の思いを話してくれた。


 話すだけ話してすっきりしたのか、蓮さんは退室前にはっきりした口調で、私の目を見て言った。




「手術は中止して下さいと、産科の先生方に伝えて下さい。今まで振り回してすみませんでした」




 そう深々と礼をして、巴さんのお腹の上に手を置いてしばらくそのまま立っていたが、ふと時計を見ると礼をして退室して行った。




「天川さん…… 良かったですね」

 そう言って、極上の笑顔の清水さんが私の顔を覗き込んできた。

 きっと私も似たような顔をしているんだろう。


「今度こそ、決心してくれたとは思うよ。まだ道は険しいだろうけどね」


 私はそうは言ったが、巴さんの全身状態自体は改善している。

 人工呼吸器も明日には離脱できるだろう。

 そうすれば意識レベルの正確な把握もできる。

 循環も落ち着いてきた。


 

 翌日、蓮さんはNICUの医師から、万が一このまま早産になってしまった場合のリスクや後遺症の説明をされたが、今度の決心は揺らがなかった。






 そして、入院後二週間。

 二十一週六日。

 今日、巴さんは産科病棟に転棟する。



 人工呼吸器はおろか、酸素すら必要のなくなる回復ぶりだった。

 循環もコントロールの必要が無くなったため、中心静脈カテーテルも抜去となった。


 母は強いと言うのは、医学的にも真実であるらしい。

 

 肝心の意識の方だが、さすがに完全に元通りとまではまだ言えない。


 ただ、彼女が目を覚まして人工呼吸器の管が抜けて最初に気にしたのはお腹の子だった。

 次に五歳のお兄ちゃん。

 後回しにされた蓮さんはそれでも満足そうだった。

 ただ、短期記憶が抜け落ちる事が多々あり、同じことを何度も尋ねてくる。

 時間とともに回復することを祈るのみだ。




 そう。


 この日を限りに私達には祈る事しかできなくなる。


 昨今の個人情報保護に躍起になっている病院側が、例え院内に入院中でも他病棟の患者のカルテを閲覧することを禁じているんだ。


 ……でも、カルテを見ても何も出来ないことには変わりない。

 結局、後は信じてもいない神に祈るしかないんだ。



 それでも私達は、一人の妊婦さんと胎児ちゃんを助けたのだと思いたい。

 二十二週を超えても、早産になってしまえば後が厳しい。


 

 それでも。



 それでも。



 ……元気に、生まれて来て。




 この世界は、苦しいことも多いけど、幸せなことも多いんだよ。



 だから元気に。



 生まれておいで。

























 日々の忙しさにまぎれ、雨の中の切ない祈りも忘れかけたある日。

 夜勤帯、しかも明け方にNICUから応援要請が入った。


 救急外来がこの時期、救急車が少ないので応援要請が入ることが多くなってくる。

 やっぱり気候が良いと救急患者は少ない。

 

 今日は九月三十日。

 もう少しして寒くなってくると、とたんに心臓系や脳卒中が増えてくる。

 でももう少しは大丈夫かな?


 NICUからの応援要請は、夜勤帯に経験者がいる病棟にかかることが多い。

 そうでないと、まず入り口から迷うんだ。

 数年前に他県であった乳児誘拐の事件から、病院側が対策を取っているのだ。そのため救急車が使用するメインの出入り口は救急車使用時しか開けられることは無く、スタッフは迷路のような廊下を通って暗証キーのついたドアから入る。

 面会の両親もそうだ。たまに出られなくなる人もいる。


 そんな廊下を通ってNICUに入ると、途端に空気が変わる。


 ここは救急とは全くの別世界だ。


「お疲れ― 手伝いに来たよ―」


 夜勤さんに小声で声をかける。

 夜勤さんは私に拝むような動作を見せて、奥を指さした。

 そっちへ行けと言うことらしい。

 その人は人工呼吸器につながれた三千グラム位の子を一生懸命眠らせようとしていた。

 OKと頷いて奥へ行く。




「あー天川さん! 助かります」

「海ちゃん久しぶり― 何したらいい?」


 奥にいたのは昔一緒に働いていた五つ程年下の看護師だった。


「あ、向こうのコットの子たちのミルクお願いします!もういっせいに泣きだしちゃって」

「おっけー」


 基本応援の看護師にはそんなに重症の子を任せる事は無い。

 それを知っている私は気軽に引き受けた。


 ……が。


 ここは経験者には容赦ない所だと言うことは忘れていた。


 確かにいっせいに泣いている。

 

 ……五人位。

 どうしろって言うんだ。


 とにかく母乳のある子は母乳を飲ませ、ない子はミルクを飲ませる。

 カルテを見て一日量の足りなそうな子から優先に。


 やっと最初の五人が落ち着いたと思ったら次が泣き出す。

 完全にモグラたたきゲームの感覚だ。



 あー 懐かしいなぁ、この感覚……

 思わず遠くを見たくなった。


 と。その時、一番近くにある保育器がふと目に入る。

 

 その名札が、目に入った。



 『七夕巴Baby』



「…………え?」


 慌てて今ミルクを飲ませていた子を降ろし、その保育器の側へ行く。

 誕生日は昨日だった。

 三十七週零日。

 出生体重二千百十五グラム。


 ちょっと小さいけどギリギリ正規産だ。




 ……元気に、生まれてくれたんだ……




「天川さん?!」


 気が付いたら私は泣いていたらしい。

 海ちゃんが心配そうに見ていた。


「あ、ごめん大丈夫。この子のお母さんがね、救命に入ってたんだ。……この子が十九週の時に」

「ああ、そうでしたね。でももう元気ですよ。もう母乳も届いてるし…… 飲ませますか?この子も元気良いんですよ。ミルク三時間おきなんですけど我慢できないんです。検査も昨日いろいろしましたけど異常ないみたいで」


 そう言って哺乳瓶に母乳を入れて持ってきてくれる。


 母乳を上げられると言うことは、母体の方は薬は使っていないと言うことか。


 私はまたにじんできそうになる涙を必死で我慢する。

 保育器の中の子は基本的に素手では触らない。

 水平感染を防ぐためだ。

 素手で触るのは両親だけなんだ。

 なので涙が出たって手袋をした手で拭く訳にはいかない。


 生後一日。

 まだ飲む量はほんの少しだ。


 でも力強く吸啜(きゅうてつ)するあの時の心音の主。



 もしかしたら、ここにはいなかったかもしれない命。


 

 

 あの時、がんばって良かった。

 逃げないで良かった。


 この先この子がどんな人生を歩くのかは分からない。


 でもいつか知ってほしいな。

 貴方を守ろうと必死だった人達が沢山いるんだよ。


 きっと強い子になるだろうな。

 

 

 巴さんの赤ちゃんは、母乳を数秒で飲み終えると足りないと泣いた。


 その力強い泣き声に、また嬉しくなる。



 

 結局その後、数人の赤ちゃんにミルクを飲ませたけど、ほとんど上の空だった。


 そしてまた迷路のような廊下を通って外へ出る。

 



 もう夜は明けて、すっかり明るくなっている。


 今日は快晴だ。


 もう、真夏の空じゃなくなった高い青空。



 気持ちのいい風が吹いてる。



 私は急いで救命センターに戻った。

 







「ねえ聞いて! NICUにね――!」











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[一言] 秋野木星さんのなろうエッセイの紹介からやって来ました。 最初から最後まで泣き通しでした。 旦那さんの苦悩が伝わって来て。 朝樹さん自身が看護士さんでいらっしゃるのかな? 他の短編も読ませ…
[良い点] 感動しました。思わず涙。 ハッピーエンドでよかった〜。 語り部の看護師さんとお父さんのリアルな葛藤が伝わってドキドキしました。 [一言] 命のかかった選択を突き付けられたとき自分ならどうす…
[良い点] 究極の選択の向こうにあるハッピーエンド。 良かった良かったと一緒に泣いていました。
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