05
すべての建造物は原型を止めておらず、倒壊してないものは、その骨組みをあらわにしていた。かつて道路だったと思しき場所には瓦礫が堆く積み重なり、それを灰色の雪が覆っていた。僕はJに見せられた情景がてっきり冬のものだと思い込んでいたが違った。一陣の風が吹き降り積もった雪を飛ばす。本来あっていいはずの色彩を奪い去っていたのは、粉塵であり残骸であり、雪だと思っていたものは死の灰と呼ばれる放射性降下物だった。
「じっ、人類は絶滅したのですか?」
「地下深くに意識体の鼓動を感じなくもないが」Jは気がすすまない様子で言った。「あまり質の良いものではないな」
自前のシェルターに逃げ込めた権力者たちのことだろうか。幸は、僕の父や母はどうなったのだろう。
「いずれにせよ」腕組みをしてJが続ける。「光合成が行われず植物も育たないこの状況では、人類は終焉を待つのみだ。なあタクミ、イソップの寓話を思い出さないか? 確か『犬と肉』というタイトルだったと思う」
それは、肉をくわえたまま橋を渡っていたある犬がふと下を見ると、見知らぬ犬が肉をくわえてこちらを見ている。犬はその肉が欲しくなり、脅すために吠えた。すると、くわえていた肉が川に落ちて流されてしまったという強欲を戒めた物語だ。
「そう……ですね」
だけど日本人である僕が想起したのは『舌切り雀』だった。
「宗教でも哲学でも、家庭の教育においてさえ過ぎたる野心は善くないものだと宇宙真理は説かれてきたが、それを本当に理解し実践できた人間の少なかったことがこれに結びついている。ひとりの狂人の行動だけが人類に終焉をもたらせたのではない。ワールドガバメント構想を推し進める連中には開戦の口実を待ち望んでいた節だってあった。怒りのみを先走らせ短絡的に戦争を容認したひとびとは、この惨状を推測できなかったのか? いや、わかっていたはずだ。国家安全保障が創立し特定秘密保護法案が議会を通った時点で集団的自衛権の行使を可能とする改憲はなったも同然だったのだからな。君の国の総理大臣は即座に緊急事態宣言を発動、嬉々として自衛隊を米軍の指揮下に繰り入れた。中国との国境近くにある化学兵器工場の爆撃に飛び立った彼らが最初のCasualties(戦死者)になっている」
防空システムに撃墜されたのだろうか。やたら額が狭くほうれい線ばかり目立つ男の顔が僕の思考を通り過ぎて行った。
「しかしまあ、失われてしまったものをとやかく言っても仕方ない。我々の任務はこのふたりを弾き飛ばすことだ」
腕組みを解いてJが言った。
「我々? ってことは、あなたも三次元宇宙へ?」
「君ひとりで任務がこなせれば、それに越したことはないんだが」なにも驚くことはあるまい、とでも言うように落ち着き払ってJが語る。「この状況だからな」
彼がタップして開いたシーンは独裁者一族の宮殿群だった。海岸沿いに建つもの、山中にあり市街地を見渡せるもの、清々しい松林に囲まれたものもある。十数箇所あった宮殿群にはどれも鳥の巣頭の姿があり、側近、警護官、医師に看護師が同伴していた。
「これがなんだって言うんです?」
「これらはどれも同じ瞬間を抜き出して君に見せている。こうしておけばどこに滞在しているか特定できないだろう。幾度となく暗殺未遂に遭ったこいつなりに知恵を絞ったのだろうな」
「えっ! するとあの鳥の巣頭どもは……」
「ひとりを除き全員が影武者ということになる。監視衛星程度ではどれが本物か見分けがつくまい。それを調べて君に知らせるのが僕の役目になる」
これほど大掛かりな目眩ましとなればその費用だけでも莫大な数字になる。この国では首都以外、電気は一日に2~3時間、水道は週に1~2日しか使えないと聞く。なのにインフラ整備をほったらかしにして己の保身に大金を投下するこの独裁者の強迫観念は病的だ。
「恐喝もどきで入手した他国からの支援は独裁者一族の嗜好品が軍備に化ける。ならば、と現物支給に切り替えても物資が飢えた国民に届けられることはない。そのせいで国民の一割が餓死した。ROGUE NATION(ならず者国家)どころではない。これは悪魔の所業だよ。だが、あっさり死なせたのでは斥力の勢力が増すだけ。少なくとも三――いや、五回は弾き飛ばした後でディックの指定する三次元宇宙へと送るべきだろうな」
それが本物かどうかはわからないが僕たちが見ている鳥の巣頭は、宮殿内部のサウナで半裸の若い女性ふたりがかりによるマッサージを受けているところだった。飽食で醜くたるんだ身体にマッサージ嬢の指がめり込んでいる。
「わかりました。では行きましょうか」
いつかコウがしたように鳥の巣頭の意識に潜り込むことでその真贋を見分け、僕に知らせてくれるのだろう。
「いや、君はここで僕の連絡を待っていてくれ」
体分子を集める僕にJが言った。
「我々の任務だとおっしゃったじゃないですか」
「トイレにもひとりで入らない男だ。実体化した君を見る人間の数は少しでも減らしたい。本物を見つけたらすぐに呼ぶ」
「……そういうことでしたら」
晩年、絶えず優しさに満ちていたJの瞳は、意外にもそこに怒りを湛えていた。