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エピローグ

 血圧も脈拍も心拍数も正常で、落雷が通り抜けた左耳の後ろとふくらはぎに軽度の熱傷がある以外、僕が目覚めないことのほうが担当医には腑に落ちなかったらしく、すんなり退院手続きを終えることができた。

「ねえ、巧巳……」

 病院の正面玄関横でバスを待っていると幸が僕に言った。

「鈍くはないつもりだけど、ここじゃあ無理だよ」

 停留所のベンチはバスを待つ人々でごったがえしており、意識世界の大冒険が夢で、自分がごく普通の人間であることを知ったいま、僕にそんな勇気は湧いてこない。

「違うわよ、バカ」幸は顔を真っ赤にして僕の腕を引っ張る。僕たちは停留所から数メートル離れた。「わたし、信じてたわ。巧巳はこの子を絶対に片親なんかにしないって」

「こっ、この子ぉ?」

 幸の目線はすっと自分の腹部に下り、慈しむように両手をそこに当てた。

「うん。六週目に入ってるんですって」

 僕は頭のなかでカレンダーを追う。

「あっ、あの時か! だけど君は安全日だって言ったじゃないか」

「生理が終わっても一週間くらいは卵子が生きて残ってることがあるんですって。なによ、嫌なの?」

「いっ、嫌なわけないじゃないか。ただ、あまりに急な話だったから驚いただけだよ。なんせほら、僕たちは量子の絡み合い状態にあるんだし」

「なによ、それ? 難しいこと言って誤魔化そうとしてるでしょう」

「してない、してない」

 やはり夢はあっちのほうだった。

「ふん!」と、拗ねてそっぽを向く幸の肩越しにバスが近づいてくる。それも停留所を通り過ぎそうな勢いで。横断歩道上の歩行者を誘導していた警備員が大きく手を拡げて合図を送るがバスに減速する兆しは見えない。轢かれそうになった警備員は間一髪で飛び退いた。

 運転手がガクリとハンドルにうつ伏さるとバスは歩道側に進路を変える。

「癲癇の発作か何かのようだな。さて、どうする?」

 誰かが僕の耳元で囁いた。どうするったって……。

 異変に気づき蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う人々の悲鳴と怒号が正面玄関横で渦を巻く。停留所のベンチには松葉杖を持った女性と耳の遠そうな老女が取り残されていた。

 振り向いて騒ぎの原因を理解した幸が言った。「あっ! ダメ――」

突然、降って湧いたように僕の脳裏にバスが浮き上がるイメージが描かれた。するとイメージそのままにバスが浮き上がる。

「そのまま落としたら乗客は無事では済まない」

 再び同じ声が言った。

 わかってますって。僕はバスの下に斥力の磁場のイメージを描く。駆動輪の回転を止めないバスは地上数センチのところまで降りて静止した。

 悲鳴と怒声だった喧噪が安堵と驚嘆のざわめきに変わる。落ち着きを取り戻した乗客のひとりが運転手の身体を押しのけてイグニッションキーを捻ると、大排気量エンジンはその咆哮を止めた。斥力の磁場が消え去るイメージを描くとバスは地上に落下し、大きく一度縦揺れした後、完全に停止した。

「上出来だ。いつかまた逢おう」

 初めて逢う老紳士は、僕の肩をポンと叩くと、病院の玄関に向かって歩いていく。

「あっ! 西野先生」

 老紳士をみとめた幸が声を上げた。

「えっ、いまのひとがそうなのかい?」

「うん、やっぱりいたんだ。なんで看護師さん、あんなこと言ったのかな?」

 幸が僕に向き直る。運転者以外、怪我人らしい怪我人を出さずに済んだ騒動が不機嫌を忘れさせてくれていた。

 僕は、流行おくれの開襟シャツで颯爽と歩く西野医師の背中を見送る。やがてその輪郭は薄まり光を撒き散らして消えていった。

「西野先生、フルネームはなんて言ったっけ?」

「確か、西野悟……だったと思うけど、どうしてそんなこと訊くの?」

「だって僕とその子の恩人だろう」

「そうね」

 幸はにっこり笑うと僕に腕を絡ませてきた。

 ニシノサトル、サトルニシノ、サトルゥヌスか――。まったく大喜利じゃないんだから。

「バスは代わりの運転手が来ないと動かないみたいだな。タクシーを拾おう」

「これからお金が必要になるのよ。貸したお金だって返してもらってないんでしょう? そんな贅沢して大丈夫?」

「酒は付き合い程度でタバコも吸わなきゃギャンブルもしない、そんな僕が真面目に働いて生活できないような社会にはならないさ」

 国民の暮らしに関心を寄せず、富と権力だけを追い求める政治家なら誰かが弾き飛ばしてくれる。そうでなきゃ僕が行く。身に覚えのあるセンセイ方、突然、目の前に気の弱そうな青年があらわれた時にはご用心を。


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