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「あれ? ここは……」
猛烈な尿意に襲われて眼を開くと、白い天井とくの字に折れ曲がったアームの先に着けられた電燈を視界が捉えた。ひとの動く気配がする。
「巧巳? ちょっ、ちょっと巧巳、 本当に気がついたのっ?」
首を捩じって声の主を探る。ベッド脇に置かれた椅子には濃紺のワンピースを着た持田幸の姿があった。
「幸か、ここは病院なのかな? 僕はどうしてここに? あっ、そう言えば君だって……」
「待ってて! 先生を呼んでくるっ」
幸は僕の問い掛けを宙ぶらりんにして部屋を掛け出ていった。待ってろなどと言われずとも僕の身体にはチューブやら電極やらが繋がっており、病院のベッドなど初めての経験である僕にはどう動いていいかもわからない。
「西野ですか? そんな名前の先生はこの病棟におられませんが」
「えっ? だけどネームプレートにはちゃんと西野悟と――」
暫くすると誰かと話す幸の声が聞こえた。薄いブルーのナース服を着た看護師を連れ立って部屋に入ってくる。ドアの開く音がしなかったところを見ると開けっ放しで出て行ったらしい。
「柘植さん、お名前を言えますか?」
中年の看護師が僕に覆い被さるようにして言った。あなたがもう言っちゃってるじゃないですか、と思ったが素直に従う。
「柘植……巧巳です」
「ここがどこかわかりますか?」
僕がマグロで、ここがマグロ解体ショーのステージでないなら病院しかない。僕は前半を端折って答えた。看護師は、既に僕から眼を離し、僕と繋がった機器の数値を読んでいた。「脳波も正常になってるわね」そう言って看護師が腕時計を見る。
「そろそろ外来が終わる時刻です。先生を呼んでまいります」
中年の看護師は速足で病室を出て行ってしまった。
「もうっ、心配させて……」
幸が僕の右手を握って言った。温かい手だった。彼女の瞳からこぼれ落ちた涙が一粒、僕の手首をつたってシーツに浸み込んでいった。
「ごめん、何が何だかさっぱりわからない。僕はどうしてここに?」
宙ぶらりんになっていた問い掛けを再度、投げかける。僕にメッセージを届けてくれた幸の意識は消滅し、反物質化した僕だって生きていられるはずがないのだ。何かの間違いでバルクにでも舞い戻ったのだろうか? だけど意識が剥き出しになっているバルクでは夢なんか見ない。
「もうっ! 憶えてないの? 巧巳はね」幸が泣き笑いの顔で言った。口癖だった『もうっ!』が、やけに懐かしく感じられる。「わたしと七福神巡りに行く約束をしてたでしょう? 駐車場が込むといけないからって電車に変更して――」
幸の弁によれば、通り雨が止むの待って、待ち合わせ場所に来ない僕を探しに出た幸は、途中、鳴らした携帯電話の着信音が駅向かいの公園から聞こえてくるのに気づき、落雷に打たれて倒れている僕を発見して救急車を呼んだのだそうだ。
なんだ、そんなオチだったのか。意識を失っていた二日間、僕は、自分が悪夢のなかにいたことを知った。
「でも、おかしいなぁ」
幸が怪訝そうに首を傾げる。
「なにが?」
「さっき巧巳を診てくれた年配の先生、名札には確かに西野って書いてあったのよ。なのに看護師さんったら、そんな名前の先生はいない、って言うんですもの、その先生が言って下さったの。彼はすぐに戻ってくるよ、って」
「誰でもいいよ、僕を幸のところに連れ戻してくれたのなら」
「それもそうよね。ねえ、巧巳」
握り合った手を強く引くと、幸は僕の上に倒れ込んでくる。顔を起こした幸の唇に、僕は自分の唇を重ねた。
「鈍くはないだろう?」
「まあね」
僕たちは重ねた唇を離さずに言葉を交わした。尿道カテーテルの入ったペニスが勃起しないことを強く願いつつ――。