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「ひとつ、いいことを教えてやろう」
もはや老人の身体は僕の視界いっぱいにまで広がっている。
「な……なんでしょう」
「サトゥルヌスはおまえに肝心なことを告げておらん。おまえの肉体が生命活動を止めた時、おまえの意識は、おまえが望むところには行けぬようになっている」
「そんなはずは――」
「ないと思うか? ならば、なぜあの女のことを小出しにする必要があったのだ。死ねば最後、あの女と永久に離れ離れになると知った上で、おまえはここに来たか?」
「それは……」
動揺しまくっていた僕は、そこに巧妙な論理のすり替えがあったことにも気づけないでいた。
――違うっ! ちゃんと別……
リチャード翁の声が聞こえたような気がしたが、寿命間近の蛍光灯のように部屋が明滅するとそれも消えた。
僕は利用されただけなのか……。
「気の毒にな。さぞやサトゥルヌスが恨めしかろう」言葉通りの惻隠はなく愉悦さえ感じさせる表情で老人が言った。「おまえ自身の言葉にもあったではないか、煉獄の住人、と。煉獄の住人は、未来永劫、煉獄の住人であり続けるしかないのだ」
顔の前にかざす手も見えないほどの暗黒が押し寄せてきたかと思うと、僕はそれにすっぽり呑み込まれてしまった。
次に視界が開けた時、僕が眼にしたのは、なんと捕われの六名と同じヘッドセットを着けられソファに掛けたままの姿勢で宙に浮かぶ自分の姿だった。重力子が操作できるならこんなこともできるのではないかと考えたこともあったが、それでも僕自身が見えていることの説明にはならない。どうなってるんだ?
「さてさて」間近で声がする。「ごく普通のサラリーマンになった気分を聞かせてもらおうか。おっと、視覚を返してやらんとな」
回転する舞台のように視界がくるりと180度入れ替わった。プロビデンス・アイは暗黒に呑み込まれる前の構図そのままにソファで寛いでいる。変わったことといえば老人の頭部にもヘッドセットが装着されていることくらいのもので、例の六名も以前と寸分違わぬ状態を維持している。僕は直前に見たものが現実かどうかを確かめるため頭に手を伸ばそうとした。だけど、どうしたことか指一本動いてくれない。
「ほっほっほっ」気味の悪い声で老人が笑った。「自分の身に何が起きているのか見当もつくまい。教えてやろう、いまやおまえは儂の支配下にあり、運動機能は停止させてある」
リチャード翁やコウのように僕の意識を乗っ取ったとでも言うのか? そんなはずはない、この思考は紛れもなく僕のものだ。
「これがなにかわかるか」
老人は自分の着けたヘッドセットを骨ばった指でコツコツ叩いて言った。
「神経ヘッドセットのようですね」
状況を鑑みれば導き出される答えはひとつ、それはエモーティブ・EEG、つまりワイヤレスの脳波計みたいなものだ。頭部に貼りついたセンサーが脳の電位変化を読み取ってコンピュータ言語に変換、認知能力だけでビデオゲームや福祉機器を操作するために開発されたものである。だが、大脳皮質は言うなれば指紋のようなもので一卵性双生児でさえ同じではない。従って検出された脳波の判定には膨大な演算が要求される。確かに理論上は双方向通信も可能だが、それがひとの運動機能を奪うほどものとなればそんじょそこらのコンピュータで手に負える代物ではない。そしてこの部屋にスーパーコンピュータは見当たらない。
「ルシファーよ」
違うってば……。「なんでしょうか?」
「さっきから儂らは互いに声を出さずに話し合っておるではないか」
いや、事実認定にはまだ根拠が薄い。なぜならばコウも、リチャード翁も、Jとも声を出さずして意思疎通が行えた僕なのだ。無言の異議を受け老人が反対弁論に立つ。
「言語中枢での遣り取りと意識レベルでのそれが違うことくらいわからぬおまえでもなかろう。ほれ」
老人が腕を上げると、さっきまでピクリとも動かなかった僕の右手も持ち上がって行く。
「儂がなんのためにこんな老いぼれのなかに留まっていると思う。カネ、それと権威が必要だったのだ。ルシフェリアンの頂点にいればこそできることがある。この城塞の主館は、外観にこそ手を加えてはないがスーパーコンピュータが設置された計算機室になっている。ある企業に開発させた20ペタフロップスの演算性能を持つそれが、おまえの思考を読み取って儂に伝える。
逆の流れで儂の思考をおまえの脳に命ずることもできる」
物的証拠の提出により異議は速やかに却下された。20ペタフロップスと言えばセコイア(アメリカ合衆国 国家核安全保障局(NNSA) ローレンス・リバモア国立研究所に設置されたスーパーコンピュータの名称)をも上回る演算性能だ。そんなものがあるなら……あっ! もしかして――。




