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城塔のてっぺんで実体化した僕は、オランダを経て北海に注ぐ国際河川を見おろしていた。これほど穏やかな気持ちで三次元宇宙に来るのは何時以来だろう。詐欺師やコソ泥を相手にしていた時でさえ調査には万全を期したつもりだったし、毎回、それなりの緊張も強いられた。だけど今回ばかりはそれも無意味だ。相手は斥力に意識を乗っ取られたルシフェリアンの頂点、それが飛ばし屋の精鋭部隊に護られているとなれば僕が逆立ちしたってどうにかなる相手ではない。だけどプロビデンス・アイは、なぜ飛ばし屋として最下級の僕を寄越せなどと言ったのだろう。誰かに化けられるわけでもなく液体になれるわけでもない。七名中六名捕まえたのだからコンプリートを目指したくなったとか? ガチャでもあるまいしまさか、な。
川の中州にバロック調の建造物が見える。ここを航行する船から徴税するために築かれたというそれは、比較的水量の安定したこの川ならではの立地だ。修復中なのかグリーンのネットが張られているのが景観を損なっている。その横を客船が白波を立てて優雅に川を下って行く。リバークルーズを終えた船は観光客を降ろしまた乗船場に戻って行くのだろうが、僕がバルクに戻れる可能性は極めて低い。なのにこんな観光気分でいられるのは諦観以上に期待に因るところが大きい。本格的に死ぬことにでもなれば幸のいる次元に移り住める。そここそが永遠の在処だ、と僕は存意していた。
「さて、行くか」
肉眼で見る三次元宇宙はこれが見納めになるのかもしれない。城塔を下りた僕は、主賓室のあるベルクフリート(居塔)に繋がるアリュール(歩廊)を進んでいく。時は初夏、山頂から迷い込んだ風が僕の頬を撫でていった。
左に回り込んだ階段を下りると短い廊下の先がルネサンス様式の主賓室だ。ドアは開け放たれ部屋の奥にあるマントルピースの装飾まで見渡せる。僕はそのまま進んだ。
ドアのところで立ち止まり拳で開いたドアを数回ノックする。ソファに座った老人――プロビデンス・アイ――が左手で手招きした。
床こそオーク調のフローリングに張り替えられていたが柱はオリジナルのままのようでこれみよがしに大理石を多用するでもない。古城の雰囲気を損なわないがための配慮がそこかしこに見られる。灯りはスチールリングに電球を着けただけのシンプルな天井灯と青白く光る壁灯のみ。ドレープの効いた遮光カーテンが引かれていたが室内を薄暗く感じることはなかった。
そこへ、と言うように老人は向かいのソファを指す。僕は、光沢のあるシャツに薄手のカーディガンを羽織った老人を素早く観察した。
落ちくぼんだ眼、無数の皺が重なって襞のようになった顔面の皮膚、体毛は数本の長い眉毛が残るだけ。外見でひとを判断してはいけないが、とても世界統一政府樹立を目論む〝彼ら〟の頂点に君臨する人物には見えない。しかもリチャード翁の話によれば〝斥力に満たされていて侵入は不可能〟だと言う。どうせならもっと活きのいい老人を選んで入り込めばいいのに――。このひとでなければいけない事情でもあるのだろうか。さっきから手の上げ下げさえ大儀そうにしている。
「柘植巧巳です。この度はお招きに与かりありがとうございます」
それでも礼を失することのないよう、僕は腰を折って初見の挨拶をする。勿論、ドイツ語で、だ。
「よく来たな、ルシファー」
老人がかすれ声で言った。別の来客がいるのか? 背後を振り返るが誰もいない。聞き間違いかもしれない。実を言うと、僕は舌を何度も振動させる「ラ」行とアクセントを前に持ってくるドイツ語独特の発音が苦手なのだ。僕が〝彼ら〟の間で『ルシファーの息子』と呼ばれていた羽柴を殺したことへの苦情だった可能性もある。
「下手なドイツ語で何度も訊き返されるのも堪らん。儂は日本語でも構わんぞ」と、老人は流暢に日本語を操る。
「お願いします」だったら最初からそう言ってくれればいいのに。「それで僕は、何のために呼ばれたのでしょう」
「まったくサトゥルヌスといい、おまえといい……」老人は言った。「肉体を転生する者の意識記憶はその世代限りか、どうにも惰弱よのう。儂は、かつて単一の意識体だった我々が争う必要などないことを説いてやろうというのだ」
サトゥルヌスは、やはりリチャード翁のことなのだろうか? だけど神話世界での木星の神サトゥルヌスはサターン、すなわちサタンのことだ。人類の物質的な生を支配するサトゥルヌスは死神とも呼ばれていた。あの彼が? そんなわけない。でもって単一の意識体だったって? 騙されちゃいけない。これは僕の離反を狙った作り話に決まってる。
予想外の展開に少々面喰ってはいたが、僕に老人の話を信じる気などさらさらなかった。




