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誰が捕われの身でいて、どんな状況にあるかわからない以上、瞬間移動は封じられたことになる。
「……わかりました」
僕はこう答えるしかなかった。
「おいっ」「はっ」
羽柴の声で足音が近づき、僕のすぐ傍で立ち止ると目隠しは乱暴に取り払われた。
これはっ……、直に真夏の太陽を仰ぎ見たような銀光が僕の視細胞を刺し貫く。屋外なのか? いや、そんなはずはない。羽柴の声も靴音も屋内ならではの響き方をしていた。僕は幾度も眼をしばたかせて視覚の明順応を急がせる。真っ先に視野を向けたのは女性の声がする辺りだ。白っぽい人影が見えてきた。まだか――。次に僕はチック症の児童のように顔をしかめるほどの瞬きをゆっくりと繰り返し、錐状体(色の識別をする視細胞)の機能回復に努める。対象物の輪郭が鮮明になってきた。
「君は……」
ガムテープで口を塞がれてはいるが、黒目がちで知性の光を湛えた大きな瞳は忘れようたって忘れられっこない。僕が勤めていた自動車整備工具製造販売会社の同僚、直井美紀だった。この世界にも幸はいないのだという落胆、捕らわれの身となったのが幸でなかったことへの安堵、どうして直井美紀が連れてこられたのかという訝しさがないまぜになって僕は混乱した。眼が合った彼女は一瞬、気遣わしげに眉を寄せると革製の手錠、脚錠で縛り付けられた木製の椅子が軋むほど身体を捩り、ガムテープの奥から僕になにかを訴えかける。だが、それも長くは続かなかった。目隠しを外してくれたブラックスーツの男が直井美紀に歩み寄り、手にした小型自動拳銃を彼女の脇腹に押し付け「静かにしろ」と、低くドスの利いた声を発すると彼女の瞳に恐怖の影が射し抗議行動は止んだ。
「なんだって彼女をこんなところに――。この女性は……」そこまで言って僕は続きを躊躇う。この三次元宇宙の僕が会社を辞めているのかいないのか、まったく調べないまま実体化していたのだ。「ただの……その……同僚なんですよ」
僕はわざと不明瞭な発声にして〝元〟と〝現職〟をぼかした。
「そうなのか?」
直井美紀の隣で拳銃を構える男に羽柴が問い掛けた。
「捜索願いの出ていた柘植に似た人物が見つかったが両親と連絡が取れず、頭部に外傷があったため入院させたところ、記憶障害があるようで本人確認ができない。柘植のプライベートと身体的特徴に詳しい者がいたら協力を願いたい――勤務先に行かせた地元警察にはそう言うよう指示しました。そこで名乗り出たのがこの女でした。上司が制止するのも聞かず出張をキャンセルして刑事に同行しました」
直井美紀が着ているベージュのパンツスーツには見覚えがある。品の良いペンシルストライプのウールギャバジン製で、彼女のキャリアにおける勝負服だったはず。出張に出かけるところだったというのも嘘ではないだろう。
どうしてそんな軽率な真似を――。僕の視線に咎めの色があったのかもしれない。直井美紀はその大きな瞳を伏せた。だけど彼女を責めるのは酷な話だ。この日本で当たり前に生活を送っている限り、本物の刑事が犯罪に加担しているなどと誰が考えよう。手の込んだ芝居だったからこそ彼女も信じ込んでしまったのだ。
ブラックスーツの男は「とぼけるな」と言うように僕を睨み付けた。見たところ三十代半ばか少し過ぎたくらい、かなりの長身でワイシャツの胸ボタンが弾け飛びそうな胸板をしている。二十代女性として平均的体格の直井美紀を引きずってくることくらい朝飯前だったろう。それよりなにより特徴的なのはその眼だ。色素が薄く黒目部分が極端に縦長の形状をしている。まるで父さんの嫌いな蛇のようだった。
「ほう、出張をキャンセルか」ほらみろ、とでも言いたげに羽柴が僕に向き直った。「そうまでしてくれる女性をただの同僚とは随分と冷たいじゃないか、ええ? 柘植君」
世の中には勘違いでしたり顔をする人間もいる。
「だから誤解なんですってば」
とにかくなんとかして直井美紀を解放してあげないと――僕は状況の精査にかかった。
敵はふたり。戸外にもっといるのかもしれないが、先ずはこのふたりをなんとかしない限り先へは進めない。上半身を起こした状態でストレッチャーに固縛されたままの僕だが瞬間移動は可能だ。ふたり一気に弾き飛ばすか? だが、羽柴が座るパイプ椅子と蛇男が立つ場所との間隔は僕が両手を伸ばしても届かない距離にある。では蛇男だけ弾き飛ばして出口まで一気に走るというのは? 直井美紀の手足を固定する手錠・脚錠を外すには時間がかかりそうだ。羽柴が拳銃でも隠し持っていればそこで僕たちの命運は尽きてしまう。
「君も強情な男だな」
羽柴は、僕の考えを読んだかのように懐から拳銃を取り出してこちらに向ける。バン! と音がして旗が飛び出るマジックグッズでない証拠に、鈍銀の銃身内部にはライフリングが刻まれていた。




