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R・Fとの会見前、A・Gは会議室の窓際で書類に眼を通しており、僕はその正面に実体化した。〝The Fed(FRBの略称)の建物内でいきなり銃撃されることもないだろう。しかも、先ほどの会話を聞く限り、A・Gは、神の使徒との遭遇に免疫もできている。劇的な登場はそういった判断の上だった。
陽光が遮られて顔を上げたA・Gと僕の視線が交わる。突如として姿をあらわした僕に、一瞬、身体を固くした彼は「おお」と声を上げ、手にした書類束を放り出すと分厚い絨毯が敷かれた床に跪いた。
「我が名は……」下手なヘブライ語でそこまで言いかけ、はたと思い当たる。A・Gは『エン・ソフは自然の本質であって、いかなる特性もなく誰の目にも見えないもの』だと言っていた。彼に認識できている僕がその〝エン・ソフ〟では不味い。僕は日本語で言い換えた。
「あ、いまのはナシで――。どうもこんにちは」
質問を整理するのに夢中で登場シーンの決め台詞を吟味しなかったのが悔やまれる。コウが見ていたら大笑いされたに違いない。
どこかで着替えでもしない限り、落雷に打たれたままの姿の僕は、フレッドペリーのポロシャツにジーンズという至ってカジュアルな出で立ちだ。これで神の使徒を名乗ろうというのも考えてみれば図々しい話だが、今度は足でもなくすのか、と平伏して打ち震えるA・Gに、その心配は無用だった。
「あの、顔を上げてください。今回、啓示の対象となっているのは、あなたではなく十五分後にあなたと会見の約束があるR・Fのほうです。この訪問はニ~三お訊ねしたいことがあってのことです」
僕は、精一杯、丁寧な表現、つまり『I was wondering』や『Could you』を駆使して問いかける。よく、おまえは堅苦しいとか言われるが、年長者にものを訊ねる時には丁寧にお願いするものだ、と躾けられてきた。未だにリチャード翁を『ディック』と呼べないのは、所謂〝三つ子の魂〟に因るものだと思う。
「なんなりとお訊ね下さい」
A・Gは畏まって僕を見上げる。安心したようでもあり、がっかりしたようでもあった。
僕が聞きたかったのは、R・Fとの会話に出てきた評議会とクライオニクスとやらについてだった。会話の内容から察するに〝評議会〟がオリンピアンズの上位機関であることは見当がつく。しかし、生に執着する〝彼ら〟が拠り所とする〝クライオニクス〟とはなんぞや。もしそれが欲望の巣窟みたいなものであれば、ついでに弾き飛ばしておくべきではないのか、との考えだった。
「実はですね」と、質問を伝える僕に「そんなことですか。それでしたら――」と、弁舌軽やかにA・Gが教授してくれたのは、インターネットや書籍からでは決して知ることのできない〝彼ら〟の組織の全貌と、死ぬまでかかっても使い切れないほどの富を得た〝彼ら〟が、どれほど生に執着するか、といったものだった。
「彼らは、セカンド・ライフサイクルが肉体を離れた精神に訪れるものであることを知りません。あなた方のお蔭でわたしは生き方を変えることができました」
A・Gは誇らしげに言った。アメリカ人の多くが生涯に一度は霊的体験を経験するらしく、それによって人生の意味に目覚めたり信仰を篤くしたりすると言う。A・Gも正真正銘の霊的体験(弾き飛ばし)で心を入れ替えていたが、僕の前任者との接触で得た知識のなかに〝啓示の代償として失う質量〟があったのではないだろうか。それが先ほどの安心したような顔にあらわれていたように思える。
「善いことですね」
「教えてください!」
神の使徒らしい返しが見つからず当たり障りない言葉を選んでいると、突然、A・Gが縋るような眼差しでにじり寄ってくる。その迫力に僕もたじたじとなった。
「なっ、なんでしょうか」
「わたしの魂はどうなるのでしょう。善い行いを積むことで久遠の闇を彷徨わずに済むのでしょうか?」
単なる使徒である僕にそこまではわからない。
「あはは、そうですね」僕は曖昧な笑いで明言を避けた。
「安心しました」
いや、安心されても……、知―らないっ、と。
「あなたがR・Fとの話を終えるまで、どこかに身を隠していたいのですが」
突っ込まれないうちに話題を変える。カジュアルな服装の日本人がFRBの廊下を歩いていれば確実に怪しまれるし防犯カメラ映像にも残ってしまう。その上、先の会見中、ドアの外ではスーツの上着を膨らませたR・Fのボディガードが油断なく周囲に眼を配っていた。
「あちらをお使いください」この会議室は建物の突き当たりに位置している。廊下に出るドアの左右にもそれぞれ一枚づつのドアがあり、A・Gが肘までの腕を使って指したのは右手のドアだった。「別室になっております」
「ありがとうございます」
僕は礼を言って、ピンヒールで歩けば顰蹙を買いそうな絨毯を進んでいった。瞬間移動すればいいじゃないか、って? 冗談を言ってもらっちゃ困る。ドアの向こうはここより若干規模の小さな会議室で、なかには机もあれば椅子だって置かれている。確認もせずに飛んだ先に水牛の剥製でもあれば、僕はミノタウロスの逆ヴァージョンにもなりかねない。肉体の再構築は、必ず空間が確保されてなければいけないのだ。
年代物の置時計の前を通る時、色々と制約の多い僕を、壁のジョージ・ワシントンが嘲笑っているように感じられた。




