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A・G「やはりその件か……。悪いが君の頼みには応じられんな」
R・F「なぜですか? これ以外にもっと上手くことが運ぶ方法をご存じなのですか?」
A・G「そうではない。上水道事業の民営化で多くのひとびとが苦しむ姿を見たくはないと言っているのだ」
――やっと金融の専門用語が出て来なくなったと思ったら今度は経済問題? コウならとっくに怒りだしていたことだろう。ここは、あらましの解説と要旨の和訳のみにとどめる。R・Fの依頼は、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)締結後、日本国を皮切りに加盟各国の水道事業を掌握したい。ついては交渉内容を公開するまでの四年間で、やはりオリンピアンズの外郭団体であるバイキャント社との合弁で一気に主要な水源を抑えてしまうよう評議会に取り計らってはもらえないか、というものだった。たかがFTA(自由貿易協定)を結んだくらいでそこまで――と、思うなかれ(実は僕もそう思い込んでいたのだが)、TPPは関税や規制の撤廃に加え、ひとの移動や知的財産権の保護、投資の自由化など、幅広い分野での提携となる。原協定第十一章には『すべての政府調達はインターネットかそれに準ずる手段によって外国からの入札機会を提供せねばならない』との明示もある。既に支配の始まっている保険業や製薬業だけではない。医療、建設、果ては警察や消防まで、あらゆる公共事業が民営化され、外資系企業に蹂躙される危険を孕んでいることは既決の米韓FTAを検証すれば明らかだ。僕はかねてから時代の総理大臣が掲げる経済政策には胡散臭いものを感じていたが、その裏にある三本の矢――特定秘密保護法案の成立、TPP交渉の妥結、憲法改正による右傾化――は、巧妙に隠蔽され、政権公約の『日本を取り戻す』からは『自らの手中に』の目的語が抜け落ちていたことが、これで確かになった。政府は農産物五項目の聖域を守ろうとする姿勢を誇示しつつ、その一方で汚い取引に手を染めていたのだが、実情を知る者は少ない。
R・F「苦しむですって? それどころか途上国なら食糧不足とのセットで大幅な人口削減を見込めます。今回の経済衝撃試験対象は東洋の小国で、将来的には数千万人の口減らしを予定しておりますが、これらにせよ対象はすべてマテリアルです。あなたらしくもない、どうなさったのですか。それとその腕、一体、なにがあなたに起こったのです?」
R・Fは〝マテリアル〟を〝標本〟という意味で口にしていた。
A・G「君はヒストリーチャンネルを観るかね」
R・F「わたしがお訊ねしているのは――」A・G「いいから聞きたまえ」
六十八歳のA・Gは、八十七歳のR・Fに語尾を抑え込まれ不服そうに口を尖らせた。
A・G「以前にも忠告したとは思うが」両肘から先がないせいか、A・Gは足を組み直すだけでも大儀そうだ。「君ほどの頭脳と貢献度がありながら未だオリンピアンズに昇格できずにいるのは、その性急さ故であるということを。憶えておろうな」
老眼鏡のレンズがA・Gの瞳を殊更大きく見せる。R・Fは無言で頷いた。
A・G「よろしい。大望を成し遂げるには忍耐が肝要なのだ。拙速に陥らなかったからこそ、オリンピアンズは今日までその存在を不確実なものにすることができていた。だがしかし――」A・Gは効果を狙うようにゆっくりと眼鏡をかけてから言った。「インターネットという情報の化物が生まれてしまった。君が公聴会に召集されたのも、世界恐慌の再現を狙ったものだとの噂が流れ、議会を抑えきれなくなったためだった」
R・F「聞いております」
A・G「オリンピック競技参加者の協会を同じ名称にして情報が錯綜するようにもしてみたが、正しく我々を指しているものもある。検索ワードさえ適切なら評議会にもたどり着くことだろう」
R・F「まさか……」
R・Fの顔から血の気が引いていった。
A・G「報道に携わるメディアをすべて支配下においたのは、こういったことを危惧したのもあったのだがな。当時、インターネットなるものがこれほど普及するなど、誰が予想し得ただろう。年寄りの出る幕は終わったのだ」
R・F「あなたともあろうお方が、何を弱気なことを――。我々の目標は。まだ半ばではありませんか」
A・G「弱気か……、そうかもしれんな。ひとは自らの理解を超えたものに遭遇すると幼子のように臆病になると言う。わたしは神、見張る者の使いを見たのだよ」
R・F「わたしをからかってらっしゃるんですか」
R・Fは不愉快そうに鼻を鳴らした。
A・G「信じられんのも無理はない。なにせ我々の神、エン・ソフは自然の本質であって、いかなる特性もなく誰の目にも見えないもの。眼で見、手で触れられるものだけが、存在の確かなもので肉体が滅べばなにもかも消えてなくなる。そう信じてきたわけだからな。だからこそ評議会の面々もああまでして生に執着する」
R・F「でしたら、何故そのような――」
A・G「この腕は、その時に失ったのだ」
A・Gは肘から先がない腕を上げた。