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 翌日から――くどいようだが調査対象者の生存する三次元宇宙でのということだ――僕は警備員室のモニターに張り付いてアンドロポフの動向を追った。有難いことに〝いま〟しかないバルクでは時間が経過しないため、どこからも『仕事が遅い』といった文句は出ない。

 調査のたび現場を仔細に語っていては話が長くなるので割愛していたが、これが僕のルーチン・ワークだ。これまたしつこいようだが〝死に直せる〟僕の場合、どれだけ慎重になっても慎重過ぎるということはない。神の使徒となったいまですら、臆病な僕には天使の大胆さより悪魔の細心さのほうが性に合っている。英国陸軍に属するこの研究所は別棟にも機能を持っており、僕はそちらの調査も抜かりなく済ませていた。

 密着調査の収穫は四日目にあった。神経質なヒグマの徘徊を思わすアンドロポフの行進は判で押したように繰り返された。研究所から与えられた個人オフィスの壁際を、卑語を連発しながら毎晩、同じ時刻に歩き始め、同じ時刻に終えて帰り支度を始めるのだ。巨漢のアンドロポフは広大なオフィスの端から端までを十七歩で到達する。そこでくるりとUターンして元に戻るのだが、壁の肖像画を横切るのが往路は9歩目、復路は8歩目ということまで僕は憶え込んでいた。ところが、その日に限って肖像画を横切るアンドロポフの姿がない。カイゼル髭の像主は目障りが消えてせいせいしたかもしれないが、追跡者であるこちらにとってはそうはいかない。僕は慌ててオフィスに意識を飛ばす。 すると――。

 なんのことはない。いつもの行進ルートを遮るように大きな段ボール箱が置かれ、それをどかす手間を惜しんだのか、赤毛の大男は進行方向を90度変え、やはり十七歩かけて行きつ戻りつしていた。几帳面なんだが横着なんだか――。だが、チャンスには違いない。アンドロポフがカメラの死角にいてくれれば、ただでさえ発音の怪しいヘブライ語を早口で言わなくて済む。僕は、散らばっていた体分子を掻き集めにかかった。

「我が名はエン・ソ――」「Почему не работает!」

実体化した僕の声にアンドロポフの怒声が重なる。しかも彼は、同時にそのデカい拳骨で分厚い掌をバチン! と叩いたものだから、僕の遠慮がちな口上はものの見事に掻き消されてしまった。足元しか見ていないアンドロポフは僕の登場にも気づかず、ずんずん僕に迫ってくる。こんな大男に圧し掛かられるのはぞっとしない。

「あの、ちょっ、ちょっと……」僕が言い、アンドロポフが顔を上げた。「エン・ソフなんですけど」

 なんだか気弱な客引きみたいになってしまったが、とにもかくにもアンドロポフの足を止めさせることはできた。続いて僕は、彼の口から『Кто ты.  Что ты здесь делаешь?  Введенное здесь как(誰だ、おまえは。ここでなにをしている? どうやってここに入った)』が発せられるのを待つ。だが、彼はそう言う代わりに、そのサツマイモのような指で僕を指すと振り返って後方のドアを眺める。ドアは閉まっていた。アンドロポフの視線は窓へと向かう。カーテンはピクリとも動かない。窓も閉め切られていた。次に彼は、僕が立っている床を見つめ、そこになにもないことを知ると左手の暖炉を覗き込んで首を捻る。最後に僕を見て言った。

「что вы сказали?」

「えっ、なんですって?」

 奇しくもその時、僕とアンドロポフは同じことを訊ね合っていたのだが、ロシア語のわからない僕と日本語を解さない彼との間に相互理解の架け橋を築くのは難事業に思えた。

 人間、必死になっている時ほど、自分が如何に馬鹿げたことをしているかに気づかないもので、僕もアンドロポフも母国語ではないなりに英語は使えるのに身振り手振りで意思疎通を図ろうとしていた。アンドロポフの関心は僕が誰なのかということより、どうやってここに入ってきたかのほうに偏重していて、閉じたドアや窓を指さしながら早口のロシア語でまくし立てる。空から――厳密には違うのだが――舞い降りたのだと飛ぶような動作をしてみせると「You Bird?」と、およそ見当違いな英語で訊き返してくる。どこをどう見たら、僕が鳥に見えるというのだろう。僕が「No, I am the human race(違う、僕は人間だ)」と英語で答えた辺りで、僕たちは互いが英語で語り合っていることに気づいて吹き出した。ひとしきり笑った後、話題は僕の正体と来訪の目的に移った。「神にせよ、その使徒にせよ、そんな突拍子もない話が信じられるか!」そんなアンドロポフの反応を予測していた僕は、神妙な面持ちで聞き入る彼に戸惑っていた。

「Unbelievable(信じられん)……」アンドロポフが言った。「I was amazed that you were here. But…, I swear to you,Takumi.I had no idea I was going to be an accessory to…evil deed(君のような存在が実在することにも驚かされたが……。誓ってもいい。わたしは、わたしの研究がそんなことに利用されているとは思わなかった)」

「Is that so? I'm sorry(そうだったんですか、お察しします)

僕には、彼が嘘をついているようには思えなかった。

「But…I have to pay for. Now, do it(しかし報いは受けねばならない。さあ、やってくれ)」

 アンドロポフ博士は、その大きな手を差し出してきた。

「Well,I don’t know…(ですが……)

「I promise. In the next world,Break my neck to peaceful use my investigation. Do not hesitate(死ぬわけではないんだろう? 新しい世界では研究の平和利用に努めるとことにしよう。躊躇うな)」

弾き飛ばされたアンドロポフ博士が身体の一部を失うだろうことを僕は告げられずにいた。肖像画の主が咎めるような眼で僕を見ているように感じられた。

「Now!(さあ!)」

 その赤ら顔に親愛の笑みを湛え、アンドロポフ博士は僕の手をしっかりと握った。

 僕は体分子の電荷を反転させる。後味の悪さなど残す間もなく、僕たちの身体はそれぞれの行くべき場所へと弾け飛んだ。


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