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 通路を除くエレベーターホール右手の全域が社会科学部門だ。見たこともないような電子機器が置かれる無菌室のような区画には大量のLEDランプが灯り、ここが地下であることを忘れさせる。分厚いポリカーボネイト製のクリアパネルの向こう側を白衣姿の研究者が7~8名忙しく動き回っているが、清潔に保たれたスチレンボード製の床は埃ひとつ立たなかった。剃り上げた頭部にたくさんの電極を貼りつけられた男性が横たわるベッドはグランドフロアの診察室にあったようなものとは些か趣向が異なり、被験者を固縛するための皮ベルトが装備されていた。お次はホール左手の区画だ。圧縮空気で開閉するドアに着けられたパネルには、単に『Psychology(心理学)』としか表記がないが、壁付けのキャビネットを埋め尽くす薬品の数からして違法薬物による人心操作を担当する部門と考えていいだろう。ともすれば製薬会社の研究部門にも見えかねないここが、世界を転覆さすべく陰謀の生産工場なのだ。

 前庭側に伸びる区画が被験者の収容所となっていた。幅2メートル、奥行3メートルほどの部屋が6室あり4室が空いていた。社会科学部門にひとり被験者がいたから占有率は50パーセントということになる。いまいるうちのひとりは五十代半ばくらいのヨーロッパ人男性でベッドに腰掛けたままずっと身体を揺すり続けている。そしてもうひとりは三十代前半くらいのアジア人男性。こちらはベッドに仰向けに寝そべり、瞬きもせず白い天井を見上げていた。大銀行の金庫もかくやと思われるほど厳重な施錠――シリンダにキーを差し込んで回すとドアの四方に閂が嵌まり込む仕組み――がなされ、ステンレスパイプの格子が嵌められたそこは未来の監獄といった趣があった。

 目当てのアンドロポフは、レコーディングスタジオのミキシングルームのようなところで機器群に囲まれていた。外壁と同じ構造材で遮蔽されたそこはラボ3、臨床実験室のすぐ隣にある。赤毛の大男は何かの波形を示すモニターをにらみながら太い指先で器用にスライドボリュームを操作している。アンドロポフがてロシア語訛りの英語でマイクに話しかけると、ベッド脇に立っていたスタッフのひとりが、被験者を思しき電極だらけの男性にヘッドフォンを被せた。装着完了の声がスピーカから流れると待ち、アンドロポフは機器のレバーを引き下ろした。

 基線付近を推移していたモニターの波形がピンと跳ね上がる。よもやシュピルマンが奏でるショパンを聴かせたのでもあるまい。アンドロポフは音響を用いた人心操作のスペシャリストなのだ。新たな音響兵器の試験中だと考えるのが自然だ。

 実験は何時間も続き、アンドロポフが自分のオフィスに引き上げた時、既に陽はどっぷりと暮れていた。さて、どこで弾き飛ばしてやろうか――。僕はもう一度、警備員室のモニター群を調べることにした。映像は研究所全域を網羅しており、例のミキシングルームみたいな部屋も例外ではない。リチャード翁のリストには『付帯的損害は最小限に』との注意書きがある。ここに勤務する全員が悪党だということだ。また、アンドロポフ自身に、〝何故、自分が身体の一部を失うことになったのか〟を知ってもらう必要がある。ヤツが独りでいるところを狙うしかないな。僕は意識の腰を据えてアンドロポフの個人オフィスを映すモニターを見入る。コウの訓戒を忘れ、〝傲慢の怪物〟に成り果てていた僕は、その時、そんなことを考えていた。

 警備員室の時計は、あと少しで二十時になろうとしている。オフィスに戻ったアンドロポフは着ていた白衣を年代物のソファに放り投げると、ヘビー級のボクサーと見紛うばかりの巨漢を揺らして部屋のなかを闊歩し始める。「チョールト!」「ブリーン!」実験の結果が思わしくなかったのか、あるいは考えがまとまらないせいかもしれない。時折、苛ついた様子でそう吐き捨てる。ロシア語はわからずとも、それらが「こんちくしょー」と同じ類であることは容易に想像がつく。 小一時間ほど行きつ戻りつを繰り返したアンドロポフは、ようやく帰り支度を始める。僕はこの日の調査を終えた。

 彼が独りになる機会は間違いなくプライベートのおけるほうが多い。今や防犯カメラは街中、至る所に設置されており、ホテル住まいのアンドロポフを弾き飛ばすなら――さすがに排便中はこりごりだが――宿に戻った時を狙うほうが安全で確実だと言えよう。なのに何故見過ごすのか、それはこんな理由に因る。以下は、僕が〝作法〟についてリチャード翁に訊ねた時の会話だ。

「オリンピアンズはその殆どが老人だ。君は、自宅で孫と遊んでいる好々爺を弾き飛ばしたいかね」

「いえ……」

「そうだろう? だからこそ弾き飛ばしは〝彼ら〟が最も〝彼ら〟らしくある時と場所を選ばねばならない、それが作法だ。デジャヴは知っているな。あれは別の三次元宇宙の記憶が交錯することによって引き起こされる。そして弾き飛ばされた者たちが自らを省みるのは潜在記憶に啓発されることが屡々なのだ」

「……そうだったんですか」

「オリンピアンズの面々には深い省察を望みたい。そこでだ」効果を狙うように一旦、言葉を切り、リチャード翁は僕に言った。「彼らが新世界秩序の成立に固執する限り、耳にしないではいられない言葉で送り出してやろうではないか」

 これが『我が名はエン・ソフなり』の由来だった。せっかくのリチャード翁の発案だったが、僕の拙いヘブライ語のせいで思ったほど効果は上がってなかった。

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