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ズボンを上げる時間くらいあげてもよかったな――飛ばされた先にひとがいれば老人は変質者扱いされることだろう。バルクに戻った僕はちょっとだけ後悔していた。
このように特異な握手法は彼らの警戒を解くのに有効だった。勿論、時には護身用の拳銃を向けられることもあるが彼らの大半は老人である。そんな時は慌てず騒がず、ターゲットの背後に飛んで首筋に触れてやればいい。これまで危険らしい危険に遭遇することなく仕事をこなせていたのは、生来の臆病な性格に加え、瞬間移動ができるようになったことも大きな要因だ。
「順調ね」
新しいリストを手に僕の前にあらわれたのはコウだった。細身の身体によくフィットした濃紺のニットに花柄の黄色いスカートを穿いている。その顔に見覚えはあるのだが、誰だったのかが思い出せない。
「それ、誰だっけ?」
「ひっどーい! ファンだって言ってたじゃない、忘れちゃったの? タクちゃんって案外、薄情なのね」と、コウは膨れっ面を作る。
「ああ……」
それは僕が三次元宇宙で落雷に打たれる半年ほど前、世界的バイオリニストへの登竜門とされるコンクールで優勝した新進気鋭の女性バイオリニストだった。その美貌にのぼせ上った僕は、帰省した時に彼女の自宅近辺をうろついたことがある。
「ファンってわけじゃないよ。僕より七つも若くてこれだけの成功を収めているひとがいる。僕も頑張らなきゃ――確かそう言ったんだ」それを幸に話していた記憶が蘇る。「同郷ってだけで面識もない彼女なんだ。忘れたって仕方ないだろう」
「ふうん、どうだか。まっ、いいわ。許してあげる」
「どうだか、ってなんだよ。許すも許さないもないじゃないか、だいたい君は――」
「男は細かいことを言わないの!」
「……」
僕は抗弁の間も与えられない。こうしてやりこめられるたびに僕は思う。瞬間移動と引き換えでもいい。誰か僕にディベートのスキルを授けてくれないものだろうか。
「くだらないこと考えてる暇があったら、さっさと仕事に行ってらっしゃい」
かねがね不公平だとは思ってはいたが、このバルクで実体化できない僕の思考は意図的に隠さない限り丸見えで、片や実体をつくることのできるコウの思考は推測するしかない。
「言っておきますけど」思考にスクリーンをかける前にコウが〝不公平〟に反応する。「隠し方はちゃんと教えてあげたわよ。そうしないのはタクちゃんの勝手じゃない」
「やけに機嫌悪いな。あ、わかった!」
思考を隠して言ったつもりだがコウには通用しなかった。
「バカじゃないの! 意識体に生理なんかあるわけないでしょっ!」
鋭く言い放つとコウは消えてしまった。フォトンの鱗粉のなかでリストが漂っている。
「何か気にいらないことがあるなら口で言ってくれればいいじゃないか」
ひとりぼやいて、はたと気づく。幸との最期も言い争いになったことを。
「神の使徒ともあろう者が」理由はどうでもいい、次に逢った時は僕から謝ろう。「小娘相手に大人気なかったな」
ひょっとするとどこかに隠れているかもしれないコウに本音とは裏腹の強がりを聞かせるように言って、僕はリストを引き寄せた。
「科学者か。また、爺さんだな。たまには若い女性でも……、あっ!」
何気なく呟いた独り言に思い当たるものがあった。コウの不機嫌は、思考を隠してなかった僕のストーカー行為を知ったせいではないだろうか。つまりはジェラシーみたいな――。いやいや、僕が神の使徒なら彼女は神のアシスタントだ。飛ばし屋の禁止事項に職場恋愛は含まれてなかったが、恋愛感情を抱く相手なら普通あんな言い方はしない。
「なになに」僕は即座にその考えを追い払ってロシア人科学者のプロフィールに眼を通す。
ドミトリー・アンドロポフ博士 七十二歳――モスクワ・メディカルアカデミー・ロシア精神矯正研究所出身。電子工学を応用したマインド・コントロールの草分け的存在。閾値以下の刺激が生体に何らかの影響を与えるサブリミナル効果実験で一定の成果を上げる。利に敏い企業のスポンサードを得て実用化に踏み切るものの、米国人著述家の〝フェアでない心理誘導だ〟との指摘で使用を禁止される。現在、オリンピアンズの命を受け、タヴィストック研究所にて『間接的過剰人口削減プロジェクト』に参加中。昨今、若年層の興味は情報端末に偏向しており、VLFIS(極低周波不可聴音)による骨伝導を利用した意識操作にお誂え向きの環境である。雑音にしか聞こえないホワイトノイズや各種音楽媒体に乗せて送信される命令事項、その再生機器を競って入手した雄性においては異性の獲得に対する意欲が削がれ、ヘッドフォンの長時間使用による非認識下での聴覚低下という副次効果も見られる。これは電気通信事業者や広告代理店の貢献度が高いと言える。また、フェミニズムの浸透が雌性の晩婚化を昂進させている模様だ――って、なんだこりゃ……。
コウが怒ったのも当然だ。こんな陰謀が進行中だというのに呑気に三次元宇宙の思い出に耽っていた僕は、あまつさえそれを下劣なジョークで誤魔化そうとしたのだから。