17
「でも……」
なおも言いよどむコウに、完全に人型となったディックが穏やかな声で言った。
「この期に及んで彼が考えを変えることはないさ。まあ、君が話しにくいならわたしから説明しよう」リチャード翁は僕に向き直る。「タク、いまのはL1502を消滅させた衝撃だ」
L1502――その呼称は、リチャード翁の指示で弾き飛ばした悪党どもが集う第三次大戦後の三次元宇宙に便宜上つけられたものだ。
「消滅……って、あそこは事実上、人類が死に絶えた後みたいなものでしょう? それをわざわざ破壊する意味があるんですか」
「破壊ではない、文字通りの消滅だ。大気は放射能に汚染され空を覆う粉塵で陽光の一筋も届かない。魑魅魍魎どもには相応しい世界だったが、そんななかでも奴らは食べ物や衣類を奪い合い覇権争いを繰り広げていた。あのまま死んでもらったのでは斥力が増すだけ、そこでわたしは思考の断片さえ残さぬよう、すべての電荷を奪いとった。宇宙は一気に収縮を始め、跡形もなく消え去ったよ。わたしは神を自称するつもりはないが、必要とあらば破壊神となることも厭わない」
物質は存在することで、それ以外の何ものでもなくなり、そしてそれ以外のすべてのものはそれではなくなる。特定の時間に特定の空間を占め、他の物質は同じ空間を占めることができない。また、その物質は同時に二カ所以上の場所を占めることもできない。リチャード翁の言葉は三次元宇宙に自己同一性という概念を持ち込んだ土星の神サトゥルヌスを想起させる。
僕は思った。この宇宙が誕生して以来、どの時代にもリチャード翁のような存在があったのではないだろうか。旧約聖書で語られる大洪水や硫黄と炎に焼き尽くされた都市も、ビッグ・ファイブと呼ばれる歴史上の大量絶滅も、彼らが引き起こしたものではなかったろうか。だとすれば対立の構図が見えてくる。〝神とその使徒〟VS〝通貨造幣権という究極の錬金術を手に入れ新世界秩序の成立を目論む不心得者たち〟だ。
リスト上位の標的については、僕なりに予習を重ねていた。国際的エリートを自認する〝彼ら〟は、世界の金融・エネルギー産業を掌握することで政財界を意のままに操り、情報は〝彼ら〟の支配下であるマスコミが検閲・濾過をする。教育の質は落とされ、お仕着せの快楽を享受し続けるうちに〝彼ら〟以外のひとびとから考える力を奪おうという戦略らしい。〝彼ら〟に反旗を翻す者は、例え国家の最高権力者でさえ排除される。ダラスで凶弾に倒れたアメリカ大統領然り、銀行強盗から社会主義国家の最高指導者まで登り詰めた〝鋼鉄のひと〟の毒殺にも関与があったとされている。鳥の巣頭の本物が見つけられなかったのも、もしかすると、何か〝彼ら〟の逆鱗に触れるような振る舞いがあってのことかもしれない。
こうした所謂、陰謀論は、現代人――とりわけ良識派を気取りたがる信仰の曖昧な日本人――には受け入れ難いものがある。だが、その良識派を作り上げた教育からして〝彼ら〟にコントロールされていたとすればどうだろう。
僕たち飛ばし屋部隊は、バルクと言えば聞こえは良いが、元自殺者や生への執着が希薄だった僕のような、言うなれば煉獄の住人の寄せ集めである。〝彼ら〟の持つ信じがたいほど強大な権力に立ち向かうには些か分が悪いのではないかと思っていた。そこへ持ってきてのリチャード翁の言葉は、僕の意識に頼もしく響いた。
「気になることがあります」
「なんだね?」
僕が怖気づいたとでも思ったのか、リチャード翁は気遣わしげな口調で言った。
「新世界秩序の成立を画策するリスト上位者は、ディックさんにとって同胞になるのではありませんか?」
リチャード翁は、なんだそんなことか、とばかりに愁眉を開く。
「どういったパス(経路)でそんな質問が飛び出したかはわからんが、わたしはニューヨーク生まれのアメリカ国籍でMITやプリンストン時代の信仰は物理学だった。意識体となったいま、国籍も信仰もないがね」
そう言うとリチャード翁は、茶目っ気たっぷりに人型の輪郭を揺らしてみせる。
「安心しました」
僕の知る限りでは、聖書を都合よく解釈するためにカバラを用い、『己の欲せざる処を隣人に為すべからず。これぞ律法の全てなり。他は全てその注釈なり』と説くタルムードい眼を伏せる〝彼ら〟を同胞であるユダヤ系民族も快く思ってないようだが、その見解にリチャード翁のお墨付きがあれば心強い。僕とリチャード翁の会話を見守っていたコウが言った。
「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。気をつけてね」
コウが引用したのは、皮肉にもキリスト教と反ユダヤ主義を毛嫌いしていたドイツ人哲学者の言葉だった。
「わかってる」
「おっと、言い忘れていたことがある」
半分、人型が消えかかった状態でリチャード翁が言った。
「なんでしょう?」
「この先、弾き飛ばしはわたしの流儀に従って欲しい。君の国の言葉でいう作法みたいなものだ」
「作法ですか……。それはどんな――」
僕が聞いたとき、もうリチャード翁の姿はなかった。仕方ない、次に逢った時に訊ねるとしよう