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古ぼけたライトバンが市場に向かう未舗装路を走っていた。ハンドルを握るのは開襟シャツにサンダル履きの中年男性で、鼻歌にしては大きすぎる歌声を上げている。
「あれは?」
「司法省大臣のハッサン氏よ」
速度を落とし市場を抜ける大臣に店主や客たちは親しげに声を掛ける。にこやかに手を振って返す大臣の車には日本語で『東亜観光』と書かれていた。
「月200ドルの給料の彼は、あの中古車で通勤して執務もこなすの。彼はH大学に向かっているところよ」
「大学? 大臣がなんで大学へ?」
「見ればわかる」
コウが言うと場面は大学の教室へと変わった。
「健全な国家運営のため、安全を確保した後に政府が取り組んだのは正式な裁判制度の確立。UNDP(国連開発計画)とユニセフに協力を依頼して司法研修制度を始めたの」
教室には六十名ほどの受講生がいた。
「へえ。えっ! もしかしてあのひとも?」
「ええ、受講生よ。彼は裁判官候補の弁護士さんなの」
僕が指したのは、どうみても六十歳は超えていようかという男性だった。イスラム国家のはずだが女性受講者も数多く見られる。
「彼女は離婚歴のある三児のシングルマザーよ」
コウは民族衣装の女性を指して言った。
「ハッサン氏は司法に女性の感覚を取り入れるべきだと大統領に提言したの。内戦時、弱いものの立場となる女性なら同じ弱いものの気持ちがよくわかる。そして腐敗を強く憎む気持ちがあるわ。その明るさ、清潔さがこの国に必要だと考えたのね。その意見に大統領も快く賛同してくれた。つまらないプライドを捨て、教義より国民の未来を優先したのよ。後継者育成のため海外からの援助はすべて学校建設に回された。これがなにかわかる?」
場面はめまぐるしく変わる。コウが開いたのは見渡す限りの粗末なトタン小屋群だった。
「難民キャンプみたいだけど……」
コウが頷く。
「そのとおりよ。学校ができた途端、キャンプの人口は一気に増えたの。子どもに教育を受けさせたい親たちが、よその地区からどんどんなだれ込んできたの。きっとこの国はアフリカ各国のモデルケースになってくれるはず」
苦難の時を乗り越え、明日を信じて力を結集するひとびとには雑草のたくましさが感じられる。いつしかコウの頬には涙が光っていた。
普段ならどこまでも軽い彼女が、文化を、言語を、肌の色を飛び越えて熱く語る姿に僕は強く感銘を受ける。あの独裁者国家で大量殺戮にも似た弾き飛ばしを重ね、荒んでいた気持ちに恵みの雨が浸み込んでいくかのようだった。
「ねえ、タクちゃん」
不意に僕の眼を覗き込んでコウが言う。
「なっ、なんだい?」
「誰もが生きることだけにひたむきな世界――すべての三次元宇宙がそんなふうなら素敵だと思わない?」
「うん。凄くいいと思う」
「ディックのリストはそんな未来を想定して作られているの。あたしはね、誰かを弾き飛ばすのにウジウジ考え込むタクちゃんのやり方が大好きよ。でも、この先はそんなんじゃ通用しない。斥力に直接意識を支配されたような相手とも対峙することになる。その時、タクちゃんの甘さが命取りになることだってあるわ。強くなって」
甘さか――。ディックさんもコウもそれを見越して悪党どもの処分法を僕に伝えなかったのかもしれない。
「努力……してみるよ」
Jにせよコウにせよ、僕がたいして勇敢な男でもないことを知っているくせに随分と脅かしてくれる。だけど今更、「止めたい」とも言えなければ、止めてどうするんだという問題もある。この三と小数値のつくバルクで目覚めて以来、僕ば飛ばし屋以外の過ごし方というものを知らないのだ。それに、よしんば死に直したところで存在を上層次元に変えるだけ。ただ、そこの住人を三名しか知らない以上、彼らのような神出鬼没が約束されているわけでもない。一層の注意を払って飛ばし屋稼業に当たるとしよう。
体分子にズンッと響くような感触があり、僕はコウに訊ねる。
「今のは?」
少し間があってコウが訊き返してくる。「……今のって?」
「なにか揺れみたいなものを感じなかったか?」
「気のせいじゃない? あたしは別になにも感じなかったわよ」
そんなはずはない。僕が揺れを感じた瞬間、ほんの一瞬だがフォトンは軌道を飛び越えるのを止め、この世界は光を失った。
「気にせいなんかじゃ――」
「話してあげたまえ」
僕の抗議に被さるように声がしてリチャード翁がその姿をあらわした。