【凝固した心】
枯れて焦げ茶色になった草原にポツリポツリと雨が降り始めた。さっきまであった晴天は見る影も無く、空は重く厚い雲に覆われている。
雲から落ちる冷たい水滴にうたれて、アリサカは枯れつつある草原の中で意識を取り戻した。
酷く痛む頭を案じ、立ち上がろうと両腕に力を入れゆっくりと身体を起こしかけると、腕と顔に裂かれるような鋭い痛みが走った。
「…」
アリサカはその痛みを圧し殺し、呻き声一つ発さずにそのまま仰向けになると、ビリビリと痺れるように痛む両手で顔を掻きむしった。
すると顔と腕の皮膚は凍った花を砕いた様に粉々に割れ落ち、その下からアリサカが本来もつ白い肌が表れた。
剥がれた皮膚は乾燥していて生気が無く、大きなシミが重なって黒く澱みきっていた。
『脱皮』だ。 それは"爬虫亜人"の系統に起きる一種の生理現象だった。
アリサカは慣れた手つきで長く日に晒されていた顔や腕の日焼け跡を全て取り、よろりと立ち上がった。
この草原には時折強い風が吹きつけられる。
アリサカはその突風に頭の頂天の髪を揺らされて、紅い角が2つ付いた帽子が頭に収まっていない事に気が付いた。身なりを確かめると帽子だけが無い。
代わりにオレンジ色の上着のフードで頭を覆うとするも、フードにはラングルの嘴によってポッカリと穴が空けられてしまっていた。
アリサカは口をへの字に曲げて、頭の上から消えた帽子を探しその場をぐるりと見渡した。
付近を埋め尽くす草原にあった目ぼしい物は、切立った断崖、列をなす風車、…巨大な白い翼がついた深青緑の甲殻。
それは紛れもなくアリサカを連れ去った巨大なラングルだった。
一瞬アリサカの紅い瞳孔は縮み上がったが、危機感はすぐに違和感にすり替わった。
地に降りることを極力避けるような竜が、無防備にも地に伏してピクリとも動かないでいる。
「妙だ…死んでる…?」
竜が死んで自分が生き残るようなことがあるとは思えず、アリサカは困惑した。
ただ、あの白く巨大な翼を見てから、本能は『奴から離れろ』と騒がしく警笛を鳴らしている。
しかし、帽子はラングルの近くに落ちている可能性がある以上、アリサカはそれに大人しく従えはしなかった。
動かないラングルに警戒しながら近づいて行き、遂には触れられる距離まで迫って行った。その姿をまじまじと見るのは2回目になる。
僅かに、ごく僅かに、ラングルの色の薄い腹部が膨らんでは萎んでを繰り返している。
穴に隠れ天敵に怯えながら暮らす小生物のような、竜とは思えないほどの静かで浅い呼吸で、ラングルはただ眠っていた。
アリサカは音を立てないようにラングルの頭の方から風下である翼側へとにじり寄った。
その際、ラングルの首元から、雨粒に濡らされて反射した金色の光が目に入った。
“城壁の街”でコルシーによって焼き付けられたあのマークの中心部に金属の小さな筒の様な物が刺さっている。
無意識的にそれに顔を近づけると金属筒には『"DH-A5"麻酔弾』と製造日らしきものが記されていた。
アリサカはそれを見て、コルシーが持っていた箱状に折り畳めるライフル銃を想起した。
"Dusk Hawk"の頭文字を合わせて『DH』。
ラングルがこのような場所で眠りこけている紛れも無い理由があった。
使わず終いではなかったようだが、アリサカはコルシーがそれを撃った姿を一度たりともを見ていない。
「借りができたな」
アリサカの頭にはこのちっぽけな金属の筒に救われた事実だけが残った。
多少なりとも心を落ち着かせることのできたアリサカは存分にラングルとその周辺を捜索し始めた。
ラングルの翼には“城壁の街”の対空砲に撃たれた跡が幾つもあったが、既に血は固まって傷が塞がり始めており、羽根には銃弾を弾き返して凹んだ跡もある。
翼にめり込んだ銃弾もそのうち生え変わる新しい羽に体内から押し出されてしまうだろう。
アリサカは上着のフードに大きな穴を空けられたその代価として、この羽根を1枚頂戴しておこうと考えた。
銃弾で根元付近がひしゃげた羽根を引っ張ると、その羽根は意図も簡単に抜けた。
白い羽根は幻のように軽く、余りにも芯が硬かった。
アリサカはその羽根を上着の胸ポケットに収めると、ラングルの翼のしたに潜り込んで帽子を探したり、長い尾の下敷きになっていないか、首元で枕代わりにされていないか、と念入りにラングルの周囲を探したが、全くもって帽子は見当たらなかった。
宛のなくなったアリサカは大胆にもラングルの深青緑の背中によじ登り、そこからまた辺りを見渡した。
先程よりも広く周りが見える。
早速アリサカの目には帽子と思しき白い物が写った。
「…あれかな」
白い生地が枯れ草に埋まっていた。さほど距離は離れていない。
ラングルから飛び降りてそちらへ向かうと、意外な事にそれは帽子ではなく人間の子供だった。
ラングルの上から見えた白い生地は長ズボンと白のシャツで、アリサカの服に似た横垂れのある橙色の服は枯れ草の色と同化していた。
ベレーとハンチングの中間のような赤土色の帽子の下から覗いている金髪は日が陰っていてもなお煌めいている。
この子供もラングルと同じく寝息を立てており、不恰好なほどにサイズの合っていないシャツの腕で、アリサカの探していた帽子を抱き締めていた。
「…なんだこのガキ?コソ泥じゃないだろうな」
アリサカはそう怪し疑ってその子供を揺り動かしたり、頬を引っ張ったりしたが、子供は不機嫌そうな呻き声を上げるだけで、起きようとしなければ帽子もしっかりと抱いて離そうともしなかった。
「んー。自分の帽子があるのに欲張りな奴だ。置いて行くのも気乗りしないな…」
アリサカは一度ラングルの方を振り返り、眠るその子供を自分の背に持ち上げ乗せて、草むらから曇り空を突くように立つ風車へと向かって歩きはじめた。
“城壁の町”と交流のある居住区との間には、支柱に四枚の板が縦についた風車が一定の間隔で設置され、地面に半分埋まった配電線で連結されている。
風車は居住区間の電力を供給するだけでなく、位置情報も記されているので居住区を行き来する“亜人”や"現代賢者"の目印としても使われる。
アリサカの近くにあった風車の電光掲示板には
『←城壁の町 360km ラグーナタ村 約15km →』
と表示されていた。
時刻はラングルに連れ攫われてから5時間も経過していた。
「360kmも飛んできたのか!…あと15分でも運ばれてたら到着してたんだがな」
アリサカはあまりの驚きに声を漏らした。
2週間掛かる道のりを5時間で来たことを考えれば、不幸中の幸いだろうか。
アリサカは風車の配電線に沿ってあと少しのラグーナタ村の方へ歩きはじめ、十数本の風車を前に来たところで突然誰かに尻尾を掴まれる感触に襲われた。
背後には誰もいない。だが、誰に掴まれたかはすぐに分かった。
アリサカが左側から振り返ると、大きな碧色の瞳がアリサカをじっと見つめ返した。
「Here residential areas outer. Who are you?(ここは居住区の外だぞ。お前は誰だ?)」
この位の年齢だと“亜人”の言葉を完全に理解できていない子供もいるため、アリサカは英語で子供に尋ねた。
「Amsu…Amsu・Redang」
少年は『アムス・レダン』と、そう名乗り、もぞもぞと袖から手を出して通りかかった風車に記されている“ラグーナタ村”の文字を指差した。
「レダン?…レダン、か。…Just right. I have also been the purpose of there.(丁度いい。俺もそこに用がある)」
『レダン』というその子供の姓と、“ラグーナタ村”を知る様子からアリサカは大方の解釈をした。
アリサカは幾つかの質問をアムスに掛けながら今まで通りに配電線の隣を歩く。
「Amsu. you stayed there in what?(何故お前はあんな場所に居たんだ?)」
「…Weet het niet」
少し間が開きつつもアムスが答えた。
アリサカはアムスの話す言語は英語と文体構成は類似しているが、別のものということに感付いていた。
「Why you had my hat?(何故俺の帽子をお前が持っていたんだ?)」
「…Weet het niet」
アムスからは同じ答えが返ってきた。
早くもアリサカの予想が真実味を帯びる。
「…Is you favorite food?(好きな食べ物は?)」
「……Weet het niet」
またも同じ答え。
言葉が通じていないと確信したアリサカは質問を諦める代わりに、アムスに尻尾を自由に触らせておいた。
また数本の風車を横切った頃、アリサカと同じように配電線に沿って向こうから女性が歩いて来た。
「あっ!!!!」
女性はアリサカたちの顔を認識すると、大声を出して走り寄ってきた。
「ようセレラ。まさか隠し子がいたとはな」
女性は、ジーンズと黒のタンクトップを着て、アリサカの着ているものと同じオレンジ色の上着を腰に巻いていた。
アムスと同じ金髪の髪は葡萄の花の模様の入ったヘアピンで留められており、蜘蛛の頭をもつ阿修羅の刺青が入った右の手には散弾銃を持っており、アムスを捜しに出歩いていたことが一目でアリサカには分かった。
「何馬鹿なこと言ってんの。従姉弟だよ!従 姉 弟!この子ったら、また急に村から忽然と消えてね。迷惑かけたね!あぁ〜アムス君!良かった!怖かったでしょ!?」
セレラはそう言うと、アリサカの背中からアムスを引き剥がし、自分の腕の中に抱きかかえた。
「…」
アムスからの返事はない。
「お腹すいたでしょ!?」
「…」
「怪我とかしてない!?」
「…」
「こいつに変なことされなかった!?」
「…」
アムスはセレラの怒涛の質問責めを全て無言で通し、煩わしそうに手でセレラの顔を押し遠ざけている。
「従姉弟ねぇ。通りで同じファミリーネームなわけだ。でもお前はまるで過保護な親だな」
一方的なやりとりを見ていたアリサカが小声で呟いた。
「保護者もとい、親代わりだからね!」
「Drop off me…!」
暴れるアムスを物ともせずにセレラは自慢気に言った。
「親代わりでも従姉弟でもいいが、相当嫌われてるじゃねぇか。あ、そいつに俺の帽子を返すように言ってくれないか」
アリサカはまだアムスから帽子を返して貰っていないことを思い出し、会話が通じるであろうセレラに頼み込んだ。
「ただの反抗期よ。Geeft een hoed voor hem, en zeggen dank! Kan u?」
セレラはアリサカの知らない言語で語りかけて、やっとアムス腕の中から解放した。
アムスは持っていた紅い角の付いた帽子をアリサカに差し出して礼を言った。
「Bedankt…」
アリサカはそのアムスの顔にある違和感に身じろいだ。
先ほど見た明るい碧色の瞳が右眼には無く、代わりに暗い赤色の瞳があった。
アムスの表情はなんともにべないが、その暗い赤色の右目と、セレラとよく似た澄んだ碧色の左目が、アリサカの赤い目を注視している。
「よくできました!さぁ帰りましょう。アリサカも来るんでしょう?」
セレラがニコニコと笑いながら言った。
「ちょっと待て。そいつ、右の目はどうした?」
明らかに異常なアムスの右目を見て、アリサカは踵を返して歩き始めたセレラを追いかけて問いただした。
「ん…?あなた見たの…?アムス君の右目を?」
「なんだその反応…。やっぱりお前、虐待でもやってるんじゃないのか?」
「失礼ね!!私は子供には手を上げない主義なのよ!これはねぇ、右目の近くに瓦礫か何か当たって、血が虹彩に入り込んで赤色になったのよ。っていうか、赤眼がなんだっていうの!あんたも赤眼じゃないの!しかも両方とも!」
セレラには見られたくないのか、セレラが近寄ってくるとアムスは右目を閉じていた。
激しくセレラが反論した。思えばアムスの右目は固まりかけた血液の色に見えた。
「事故か?視力は失ってないようだが…」
「まぁ、事故よ。その時に精神の方が参っちゃってね。夜驚症に夢遊病、解離性同一性障害その他諸々。今回も無意識的に歩き彷徨っていたんでしょうね。…急に暴れ出したりしなかった?」
最後の言葉はアムスに聞こえないようにセレラは小声で言った。
「いや、別に」
「そう?よかった。誤解も解いたところで、雨がひどくならない内に早く帰りましょうね~」
明るい表情に戻ったセレラは来た道へ歩き出した。そこにアリサカとアムスも続く。
「そうだ、コルシーが城壁の町に越して来たんだ。後輩なんだろ?」
アリサカはコーヒーおじさんに頼まれていたコルシーの事を思い出し、セレラに伝えた。
「うん聞いた。あなたの死亡報告と一緒にね」
一気に冬がやって来たように冷えた風がアリサカの周りに吹き付けた。
「…何言ってんだ!?俺は死んでなんかいないじゃないか!」
あまりに予想外な発言にアリサカは数秒固まってしまった。
「何だっけ?"遺伝竜"にテイクアウトされたんでしょう?町の人々の前で。そりゃあ死んだとも思われてもおかしくないでしょ」
セレラが毅然と言い放った事は至極真っ当で、納得せざるを得なかった。
「それじゃあ次に町に行く時俺は幽霊扱いか」
アリサカは厄介そうにため息をついて、白地の服のポケットに手を突っ込んだ。
「まーた肩書きが増えるわね」
「いらねぇよ!肩書きなんかあっても何の得にもならないだろ!」
「待ちなさいよ。私がつけた『風車』はセンスあるでしょ?」
アリサカのような“現代賢者”相手に依頼をこなす“蒐集亜人”は仕事ぶりや風貌から、"現代賢者"たちにいくつかの肩書きをつけられることがある。
正直、どれもこれも親しみを込めているからなのか、面白味や皮肉混じりのようなものばかりなのでアリサカ自身がそれらを名乗ったことは一度も無かった。
「それ本気で言ってんのか?俺とそこらに立ってる風車のどこに接点があるんだよ」
「よく回るところかしら?あっははははは!!!!」
洒落ともとれない発言に絶句するアリサカを尻目に、セレラは奇声に似た笑い声を上げた。