五歳の遺書
「ねぇお母さん自殺って何?」
お母さんはびっくりして青ざめてしまいました。
聞くと幼稚園で自殺ごっこというのが流行っているそうなのです。
それはある心無い先生が始めた遊びで
「日本には年間三万人の自殺者がいます。その人達の気持ちが分かるように遺書を書く練習をしましょう」と言ったのだそうです。
「私も書いたよ。遺書」
それはこんな詩みたいなとても幼稚園児が書けるものではありませんでした。
わたしにはゆめがありません。ゆめっていうのがわかりません。ねているときのゆめはとてもたのしくねているときのゆめのなかでくらしたいくらいです。いきることってすごくきたない。だってほかのいきものをたべるためにころしてへいぜんとしている。あそびや くじょとかでころす。ひととひとだっておなじようなものです。
わたしにはすきなひとがいません。すきっていうきもちがわかりません。おとうさんはすきです。でもこいじゃありません。おとうさんとけっこんしたいとおもったことがありました。するとしんせきのおばさんがおとうさんとけっこんするとくるくるぱーのこどもがうまれるよといいました。
わたしはくるくるぱーなんてことばそれこそしぬまでききたくありませんでした。そのときそのおばさんしんでしまえばいいのになんてひどいかんがえがうかびました。それはつみなことだとおもいました。なんとなくむねがくるしくなっていきるのがつらくなってきてそしてひとはうつくしいはなばたけをみるにつけきれいだねなどといいながらたおってかざる、それがこうしょうなしゅみだとおもっているとおもいます。ひとはすべてがいやになったときしぬんだとおもいます。
じゅみょう? わたしはうまれてきてまだごねんです。でもおとながうそつきなのはしっています。だって いまてんにめされるかもしれないおとしよりをひとところにあつめて「おとしよりのがっこうだ」なんていっています。わたしはおそろしくてなりません。しんだほうがましだなとおもいます。しゅうまく。
お父さんが帰ってきました。
「あなたちょっとこの子が……」
「そうか遺書を書いたんだな。どれどれ。うんまだまだだな。ヴイ、生だね。嫌なヴイから逃げる事は悪い事じゃない。でも死んだら終幕って書いてるじゃないか。お父さん、お母さん、お友達との劇から降りるとその分役が足りなくなるんだよ。もし将来苛められたら苛められる役割なんだと思えば良い。恋人と上手く行かなかったら自分が美しくないからだと思えば良い。お化粧もした事ないだろう?まだ演じきらなきゃならないんだ。斜陽が二度と見られない世界に行くまでね」
「うーんお父さんの言ってる事難しくてわかんなーい」
「分かるようになるまで生きるんだね」
「あなたありがとう」
お父さんは冷や汗三斗 脂汗 斜陽の直治の遺書を読んでおいて良かったと思ったのでした。