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海のかけら

作者: 黒井ハナ
掲載日:2026/05/26

1

 一人の少女が壁にかかっている額縁を見上げていた。

 ようやくランドセルが背負えるくらいの身長になったその女の子は、額縁を眺め続けて、その後にこくんと首を傾げた。


 額縁の中には絵が飾られている。

絵の中では、青い海を背景に彩とりどりの魚たちが自分の進み道を決めて、自在に、そして自由に泳ぎ回っている。

 限られたスペースしか与えられていないはずの魚たちは、自分たちが住んでいるのが絵の世界だと気が付いていないように、楽しそうに進む先を見据えていた。


 絵は完璧とも言って差し支えない程に、美しかった。

 誰が見ても、どんなに性格が捻くれた者であっても、その絵を見れば必ず一言目に「美しい」と言うだろう。

 それでも、その女の子は絵を見て首を傾げた。

 この年齢にして、絵の粗に気が付いたわけではない。

 そもそも、この絵にはそんな粗などない。

 いや、この絵が「完成」していれば、粗は全く存在しなかっただろう。


 この絵の真ん中には、正方形の穴が開いていたのだ。

 縦と横がきっちり2センチほどの穴。

 それが絵の中心部分に開いていたのだから、その少女は首を傾げたのだ。

 少女は傾けた首をもとに戻してから、自分の両親を呼んだ。


「パパ! ママ! 絵が変だよ」


2

 家の二階の廊下の端から、女の子は両親を呼びつける。

 一度呼んでも誰も二階の廊下に上がってこなかったから、少女はもっと声を張り上げる。

「パパ! ママ! ちょっと来てよ! 絵が変なんだって」

 彼女の呼び声で、ようやく母親が階段を駆け上がってきた。数秒ほど遅れてから、父親も小走りで廊下に駆け付ける。

 少女は、自分がすぐに呼んでも駆けつけて来ない両親に少し不満そうにほっぺを膨らませる。「ごめんね」と母親が苦笑いして、父親の方も「それで、どうしたんだい」と優しく声をかけた。

「この絵の真ん中のピースがどっか行っちゃった」

 女の子は絵の真ん中を指さした。

 母親と父親がそれぞれ彼女の指の先を見て、「ああ、そうだね」と自分たちの娘に確かに頷いた。


3

「せっかく完成させたのに、これは悪戯かな?」

 父親はしげしげと絵に近づいた。

「そうね、きっとお兄ちゃんね。こんなことをするのは」

 母親は笑ったが、幼い娘は怒ったまま腕を組んでいる。

「お兄ちゃん、いつもやんちゃしちゃうから」

「ママの言うとおり、小学校に行く前にお兄ちゃんがピースを隠しちゃったんだろうな」

 父と母は困ったように笑いあった。



 額の中の絵から消えていたのは、たった一つのピース。


 50個のピースで出来ているジグソーパズルは、鮮やかな魚たちの絵に魅了された女の子と彼女の兄の意見が一致して、両親が二人に買い与えたものだった。


 もともと、細かいブロックを組み立てて遊ぶのが好きだった幼い二人は、パズルにもすぐに夢中になって遊んだ。


 作り始めて1週間、両親の手を借りずにパズルが完成した時、女の子とその兄は嬉しそうに絵をしげしげと眺めたあと、嬉しそうに「やったぁ」と声を上げたのだった。


4

「あとで、お兄ちゃんに元に戻すように言っておかないとね」

 母親が娘の目線まで屈んでから穏やかにそう言ったが、「いやだ! おにいちゃんが帰って来るまでに見つけたい!」と女の子は自分の首をぶんぶんと降った。

「おにいちゃんが帰ってきたらたくさん怒るんだから!」


 娘の言葉を聞いて、父と母は顔を見合わせて、ため息をついた。

 それから父親も娘の目線までかがんでから、優しく声をかける。

「じゃあ、おにいちゃんが帰って来るまでに、みんなで見つけちゃおっか」


 うん、と元気よく頷いた女の子の顔は、明るく晴れだした。


5

 自分の娘が家の中の危ない個所を探さないように、女の子は母親と一緒に家の中を探すことになった。父親は一人、一階のリビングから順に探し始める。


 廊下に沿って、浴室、両親のベッドルーム、果てはトイレの棚も娘と探すが、小さな絵の欠片はどこにも見つからない。


 階段を軽く駆け上がって来た父親の顔を見て、女の子はがっくしと肩を落とす。父親はバツの悪そうに「一階にはなさそうだ」と告げた。



「じゃあ、残るのは……」と言って、父と母は顔を見合わせる。

 少女が両親の目線を追うと、その先には兄の部屋があった。


 兄だけに与えられた立派な部屋のドアを前にして、妹はあからさまにそわそわし始める。


 兄がいないうちに、いたずら仕返しちゃえ。


 父親がそっとドアを開けると、少女は兄の部屋に駆け込んだ。


6

 兄の部屋は電気が付かなかった。

 カチカチと部屋の電気のスイッチを何度か押して、女の子は「あれ」と母親の方を向いた。


「あらら、電球が切れちゃったみたいね」

「そうだな。あいつが帰って来るまでに新しい電球に変えとくよ」

 父親が部屋の中を見回した。


 月と星の光は黒い夜の雲に覆われて、今日はいつもよりも一段と外が暗い。

カーテンが開けっ放しになっている窓から外の暗闇がそのまま流れてきたかのように、部屋もまた闇に覆われている。


 この暗い空間でパズルのピースを探すのは難しいだろう。

 母と父が自分の娘に諭すようにそう言ったとき、彼女は元気よく「あった!」と声をかけた。


「すごいじゃない。どこにあったのかしら?」

「おにいちゃんのベッドの上に転がってた! ちょうどベッドの真ん中!」

 少女は得意げにベッドを指さして見せる。

 廊下のオレンジ色の電気の光がドアから差し込み、ベッドをすうっと照らしていた。


「すごいな。パパとママには見つけられなかっただろうな」

「そうね。やっぱりあなたはすごいわね」

 父と母は口角を吊り上げて、自分の娘を誉めた。

 少女は嬉しそうに「うん」と笑顔になった。


7

「それじゃあ、夜も遅いし、そろそろ寝ましょうか」

 母親が娘の手を引くと、娘は「えー」と顔をしかめた。


「おにいちゃんに見つけたって言いたいのに」

「そうね。せっかく見つけたけど、今日はお兄ちゃんの帰りも遅いから、明日、自慢しましょう」

 母親が笑って寝室まで娘の腕を優しく引く。父親は先回りして、寝室の布団を整えてくれていた。


「じゃあ、明日、おにいちゃんにいっぱい自慢しましょう」

 娘にふかふかの布団をかけてから、両親は電気を消して「おやすみ」と微笑んだ。


 娘には決して悟られないように、必死に表情の筋肉に力を入れて、優しい笑顔を作って見せた。


「うん、おやすみなさい。パパ、ママ」

 娘が枕に顔をうずめたのを確認してから、二人は静かに寝室の扉を閉める。


8

 かちゃり。

 静かにドアが閉まった時、母親は床に勢いよくしゃがみこんだ。

 その拍子に「どすん」という鈍い音がしたのだが、どうやら寝室の中の娘には聞こえなかったらしい。


「こんなところじゃだめだ。なんとか一階まで降りないと」

 夫は妻の肩を優しく抱きながら、ゆっくりと一緒に歩く。


 歩きながら、妻はカチカチと顎を鳴らし、目から流れる涙と共に嗚咽してしまう。

「ごめんなさい……。あの子に聞かれちゃうわね……。ごめんなさい」

 小刻みに震える妻の肩を抱きながら、「仕方ないよ」と夫は唇を噛み締める。


 息子が不幸な交通事故で命を落としたのは半年前だった。


 事故の直後、娘は「死」というものがよく分かっていないようで、ただ茫然としていた。


 息子の葬式が終わり、日常の生活が戻り始めた時に、彼女には大きな変化が訪れてしまった。


9

 その少女は、兄の存在そのものを忘れてしまったのだ。


 兄がいたことも、一緒に生活していたことも、兄からお世話してもらっていた記憶も、一緒に遊んだ思い出も、全てが彼女の頭の中から消えてしまった。


 自分たちの娘が兄の死にショックを受けていないはずはないと両親にはよく分かっていた。

 しかし、兄に関するすべてのものを頭の中から消し去ってしまった娘に、両親はどう接すればよいのか分からずに、母親は毎日声が枯れるまで泣き続け、父親も外に出るのが難しくなるほどまでに叩きのめされた。


 感情が少しだけ収まったある日、両親は向かい合って座り話し合った。


 息子と娘は仲が良かった。

 だから、どれほど辛くても、娘には兄の存在を思い出してほしい。


 けれども、兄に関する記憶を消すことで彼女が日常生活を送れているのならば、最愛の兄の死をもう一度告げることは、この世の中で一番残酷な行為なのではないか。


 両親は話し合った。

 何時間も、何日もかけて。


 その結果、二人は答えを導き出すことが出来なかった。


 息子の死、そして、息子の存在を否定してしまった娘と送る日常生活。

 心の奥に残されたわずかな感情と共に日々を送る中で、パズルのピースはある日突然に欠けていた。


10

 その日、兄と妹が一緒に完成させたパズルの横を通った時、母親の目から涙が溢れそうになった。


 だが、一階の部屋から娘が呼ぶ声が聞こえ、母は歯を食いしばり、涙を抑えた。


 だからだったのかもしれない。

 母親は、無意識にパズルの真ん中の正方形のピースを一つだけ手に取った。


 右手の中に握りしめられたピースをどうするつもりだったのかは、今になっては当の本人にも分からない。

 母親は一つのピースをエプロンのポケットに入れ、呼び続ける娘のために、階段を駆け下りていった。


 そして、一つの、だが重大な変化が彼女に訪れた。


 寝室に向かう途中で、娘がパズルの前で立ち止まったのだ。

 彼女は、こくんと首を傾げて、母親に向き直った。

「絵の真ん中のピースがどっか行っちゃった。隠したの、おにいちゃんかな?」


 1か月という長い時間の果てに、娘の口から出た「おにいちゃん」という言葉。

 母親は思わず娘を抱きしめた。

 けれど、母には分かっていた。

 娘は「兄がまだ生きている」と信じて疑っていないことを。


 泣きそうになる母親に娘は困惑しながら、楽しそうに「おにいちゃん探そう」と笑った。


11

「どうしたらいいの? このピース。しかも、あの子はお兄ちゃんが生きているって信じてる」

「今はあの子に合わせて行動しよう。今日はそれでなんとか乗り切って、その次のことは病院の先生とも相談して考えよう」


 夫は妻がパズルのピースを抜き取った理由も聞かず、責めることもしなかった。

 二人は咄嗟にパズルのピースを兄のベッドの上に置いて、家族三人の楽しい「宝さがし」が始まったのだ。


 不思議なことに、女の子は宝さがしをしている間だけ兄の存在を思い出せた。

 しかし、彼が命を落としたことは決して思い出せなかった。


 宝さがしが終わったとき、いつか、兄のすべてを話そう。


 そう決めた夫婦は、「これ以上、宝さがしをしてはいけません」という娘の担当医の言葉を無視する形で、娘と何度も「宝さがし」を続けることにした。


 だが、何十回と宝探しの回数を重ねて行っても、結局、彼女の前では「兄の死」について語ることは出来なかった。


12

「私はどうすればよかったの」

 ある日の宝さがしが終わった後に母親は呟いた。


 魂がこもっていない、骸骨のように今にも折れてしまいそうな脆い声。


「これからもこんなことを続けるの? どうしてこんなことになってしまったの?」

 泣きながら震える妻にかける言葉を夫は見つけることが出来なかった。


「大切なあの子を思い出してほしいと願ってしまったから? そう思うことそのものが悪い事だったの?」


 なんであの日、私はピースなんて手に取ってしまったの?

 兄のことを思い出したあの日、私たちは真実を告げるべきだったの?

 私たちはこんなにも罰を受けなければならない悪いことをしてしまったの?


 母親は泣いた。

 父親も何も言えずに涙を流した。


 どんなに泣き続けても、二人の感情は永遠に収まることがないように思えた。

 真っ暗な息子の部屋から抜け出せないように思えた。


 そして、二人は泣き続けた。

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