第15話 高木絵美里という女性
東京の郊外に佇む豪邸。
車庫には高級外車が並ぶ。
家主である父は上場企業の取締役。
母は有名なファッションデザイナー。
裕福な家庭。
何不自由ない暮らしを約束された一人娘。
高木絵美里。
高価な調度品や芸術品に囲まれ。
習い事や年に数回訪れる海外旅行など、まさに上流階級。
煌びやかな、誰もが羨む環境。
しかし。
――彼女は孤独に打ち震える。
当たり前に、そして“与えてもらえるはず”の一番大切なもの。
両親の愛。
そのぬくもり。
――彼女は知らない。
両親は仕事優先。
粗末にされていたわけではない。
だが絵美里は大豪邸で寂しい夜を何度も経験し、一人涙を流す。
徐々に削られていく感情。
それは。
彼女の運命を静かに動かし始める。
※※※※※
絵美里が4歳のころ。
まだ幼い彼女のために両親は家政婦をあてがう。
菊池という50歳くらいの女性。
優しい彼女に、絵美里はすぐに懐く。
また彼女も絵美里の事を自分の孫のように可愛がってくれた。
両親から愛情をもらえなかった寂しい心は。
徐々に修復されていく。
そして笑顔が増えたころ。
悲劇が訪れる。
ある夏の日。
家政婦と手をつなぎ幼稚園から帰ってきた絵美里は、普段家にいない母の靴を玄関で見つけた。
(ママがいる!)
絵美里は家政婦の菊池が止める手を振り払い、母の寝室へ駆けこむ。
今日お遊戯で、先生に褒められたことを伝えたくて。
しかし母は――
父ではない“知らない男”と抱き合っていた。
絵美里は意味も分からず涙があふれ出す。
がむしゃらに、母親に抱き着いた。
「ママッ!!」
「…ちっ」
パンッ!!
ジンジンする頬。
呆然と立ち尽くす絵美里を、母はまるで知らない人のような冷めた視線を向ける。
「出ていけ」
※※※※※
日常が音を立て崩れだす。
――そして。
その日以降。
絵美里は母と二度と会うことはなかったんだ。
さらに悲劇は連鎖していく。
父に“隠し子”がいたことが発覚。
高木家はもう。
“修復できる段階“を超えてしまっていた。
※※※※※
両親の離婚。
絵美里は正直、深い両親の愛は知らない。
でもそれは。
彼女にとって、心を引き裂かれる悲しい事。
夜な夜な菊池に抱き着く彼女。
まるで赤子のように。
ただ震え、ぽろぽろと大粒の涙を流す。
(っ!?…せめて…私だけは…)
心に誓う菊池。
だが。
地獄はそこからだった。
※※※※※
父の隠し子。
12歳年上のその男は。
幼い絵美里をおもちゃのように扱う。
無垢な心は踏みにじられ。
感情すら心の奥にしまい込む絵美里。
そして――
「坊ちゃん、それはダメです…それだけは、絶対に!!」
お風呂場に飛び込み、震える絵美里を抱きしめる菊池。
決死の覚悟。
なにより隠し子の男は、すでに倫理観――狂っていた。
おもむろに顔を歪ませ――
ズブッ――
伝わる何かを切り裂く音。
色を無くしていく菊池の瞳。
身体にかかる、生暖かい“赤い”もの。
絵美里の心は。
――完全に壊された。
※※※※※
わたしは高木絵美里。
なぜだか知らないけど。
わたしには小さいころの記憶がない。
覚えているのは。
――10歳くらいの時から病院にいた、という記憶。
そして12歳になった冬。
わたしはおばあちゃんに引き取られた。
小学校に通ったこと。
覚えていない。
――きっと通っていたはずなのに。
病院の先生が
『思い出さなくていいよ』
そう言ってくれたけど。
モヤモヤした感覚。
それはいつまでも消えなかったんだ。
※※※※※
新しい生活。
新しい学校。
通い始めた初日。
私は見た目が良かったみたいで、ちょっと目立つ男の子に目を付けられた。
肩に手を回され、生臭い息がかかる。
周りでニヤニヤする男の子たち。
心の底から湧き上がる怖い感情。
パニックになり。
――私はなりふり構わず大声で泣いたんだ。
あの時。
大人の人が助けに来てくれ、大事にはならなかったようだけど。
後で分かったんだけど。
心配したおばあちゃんの指示だったようだ。
「まったく。奇麗で可愛いというのは…不幸も“しょい込む”のかねえ…絵美里、あんたは悪くない。でもね」
「……ぐすっ…うん」
「明日からはこれを使いな」
「…眼鏡?」
「そうだよ。服も…少し地味な物にしようかね」
※※※※※
それから。
すごく地味な格好をするように言われ。
わたしは三つ編みに分厚い伊達メガネをかけるようになる。
そして引っ越し。
誰も知っている人がいない中学校へ入学した。
見た目が地味なせいで誰も私に注目しない。
すごく楽で。
自分が普通になった気がしていた。
しばらくして――
「ねえ、高木さん?…ふふっ。目が悪いの?凄くごつい眼鏡だね」
「う、うん。…乱視が酷くて…」
「ふーん。ねえねえ、推理小説とか、好き?」
「あっと…読んだことないかも…」
前の席の中島さん。
彼女は優しく笑う。
何気ない会話。
多分初めての友達。
私は何だか学校が好きになっていった。
だから私は。
ここに来る前の“あの怖く思った事”とか、すっかり忘れていて。
少し自分のガードを緩めてしまっていたんだ。
※※※※※
メガネは伊達だし、三つ編みもお出かけ用。
もちろん家ではしない。
そしてあの日。
私は思い知る。
あの日おばあちゃんの親戚が亡くなりお葬式に参加するため、私は一人留守番をすることになった。
凄く心配されたけど。
最近明るくなってきた私はにっこり笑い。
「大丈夫だよ?おばあちゃん」
そう言って送り出した。
初めて一人で家にいることがなんだか嬉しくて。
それまでは一人になると怖いものが心の中からいっぱい出てきたけど。
もう平気だった。
私は浮かれていて寝坊してしまう。
だから慌てて、髪も眼鏡も忘れてしまったんだ。
そして。
「お、おはよう…はあはあ、間に合った」
「おはよう…っ!?」
ぴしりと音を立て、固まる中島さん。
そして豹変。
冷たい視線が私に突き刺さる。
「ふーん。それが本当の姿?…めっちゃ美人だったんだね」
「えっ?」
いつもの笑顔。
でも。
「…楽しかった?ブスの振り」
分からない。
なんで…私。
――どうしてそんな目で見るの?
「なに?嫌味なの?『私可愛くない』なんて、いつも言ってたくせにさ。あーあ、せっかく仲良くなれたと思ったのに。――酷いよね」
「え、何言って…」
ガンッ!!
「痛っ?!!!」
ポタリ。
額から血が流れる。
床に落ちる文庫本。
――今日貸してくれる約束をしていた、推理小説――
「っ!?…ふ、ふん。…もう話しかけないで」
理由はわからない。
でも、私は。
唯一の友達を、失ったんだ。
※※※※※
そして私は。
クラスの保健委員につれられ、保健室へと向かった。
歪む視界。
激しく脈を打つ鼓動。
私はやっぱり。
『一生呪われている』
――この時思ったんだ。
※※※※※
「…なあ、高木、お前めっちゃ可愛いな。俺と付き合わない?」
「え…」
――ぞわり
欲情をのせた瞳。
それが無遠慮に、私の体を舐めるように注がれる。
フラッシュバックする恐ろしい顔。
義理の兄の歪んだ表情。
「うあ、いや…いやあああああああああああっっっっ!!!!」
「な、なんだよ、やべーよコイツ、お、おれ知らねー」
狂ったような絶叫を上げ、崩れ落ちる私。
慌てて逃げだす男の子。
私は。
廊下の真ん中に放置され。
先生に助けられるまでずっと泣いていたんだ。
※※※※※
「…ええ。そうですか…しょうがないですね…ごめんください」
リビングで電話を終えたおばあちゃんがため息をつく。
パニックになった私。
どうにか落ち着いたものの。
あの時の事、学校中の噂になっていた。
「…転校しようか…絵美里は悪くないんだ」
「……うん」
※※※※※
新しい学校では私は地味な格好をして貝みたいに口をつぐむ。
なるべく誰ともかかわらないように。
もう嫌だったから。
学校なんて行きたくない。
――でも。
『絵美里は辛いだろうけど、ここで逃げたら一生そうなってしまうよ。毎日でなくていい。行ける日だけでも頑張ろう』
おばあちゃんは涙を浮かべ、真剣に言うから。
だから私は。
誰も分かってくれないと思うけど。
分かってもらえなくてもいいけど。
頑張って歯を食いしばって学校に通ったんだ。
※※※※※
11月の寒い日。
わたしは3人の男の先輩に囲まれていた。
やっと少し落ち着いて来たタイミング。
どうしてそうなったのか分からない。
でもクラスの女の子にこの荷物を体育倉庫に運んでほしいって言われて。
恐かった。
悲しかった。
もう感情は。
――氷のように張り付いていたんだ。
……“死にたい”って思った。
「おい、マジかよ、地味子ちゃんじゃん。…胸は結構でかいけどよ」
「いやいやお前ら驚くなよ、へへっ」
そう言って手を伸ばす男。
もう…抵抗すらできない。
されるがまま眼鏡を奪われ。
息をのむ声が耳に届く。
「っ!?……やべー、可愛いじゃん」
「だろ?こいつのクラスの雪奈が言ってたんだよ。『なんか気取ってるから、いじめちゃえば?』ってな」
「ぎゃはは。ひでーな、おい」
私はもう。
何も聞こえなかった。
感情が働かない。
なのに――絶望して。
涙があふれてきた。
ああ…私は――
「おいっ、お前ら!何やってるんだ」
「っ!?」
誰も助けてくれない。
そんな私の思いは。
――一人の男子の背中に守られる。
「な、なんだよ、関係ないだろ!!」
「お前らサイテーだな」
「くそっ、コイツ一人だ、おらっ!!」
「うっ」
ずっと私を守ってくれていた背中。
いっぱい蹴られても。
殴られても。
抵抗せずにただ。
わたしを背中に庇って……
知らない感情が沸き上がり、鼓動が跳ねる。
「おい、何やってる!おいっ、こらあ、まて」
「やべ、先生だ、くそっ」
きっとわずかな時間。
でも怖くて、そして切なく。
――甘い時間。
体育の怖い先生が来てくれて、わたしたちは解放されたんだ。
※※※※※
助けに来てくれたのは、2年生の先輩。
生徒会の書記長。
面白くて頭のいい人気のある先輩だった。
「いてて、くそ、あいつらめ。顔は覚えたぞ。あとでたっぷりって……あっ、大丈夫?怪我してない?」
先輩。
――本田先輩は。
顔から血が出てるのに。
ワイシャツも泥だらけなのに。
わたしににっこり笑顔をむける。
安心する笑顔。
分からない感情が、まるで激流のように私の心を揺り動かす。
「ヒック…グスッ……うあ……うあああああああ」
「おう!?だ、大丈夫?うあ、ど、どうしよう、ああ、えっと」
そして。
なんかすごく謝りながら、先輩は。
優しく私の頭を撫でてくれたんだ。
「あ、その、ごめんね、そのっ、いやならすぐやめるから、えっと……大丈夫、大丈夫だから…泣かないで……」
※※※※※
そのあと。
保健室に行って治療を終え、本田先輩は私に声をかけてきた。
「もう遅いからさ、もし嫌じゃなかったら…そ、その。――家の近くまで送りたいんだけど」
顔を赤くして、照れながら。
(…もしかして…この人も……)
よぎる怖い想い。
いやらしい視線。
だから私は。
断ろうと思って、本田先輩の目を見た。
「えっと…あ、あの……っ!?……え……」
「ん?」
彼の瞳。
私を心の底から心配する、優しい色。
防衛本能なのだろう。
わたしは目を見れば。
――なんとその人の想い、なくわかるようになっていた。
「あの……お願いします」
つい口をつく言葉。
本田先輩は優しい笑顔で――頷いたんだ。
※※※※※
帰り道。
わたしはきっと人生で一番多く男の人とお話をした。
もちろん全部は言えないから。
だいぶぼかして話したんだけど……
「ヒック……グスッ…高木さん……うう、……酷いよな……みんな……君は……グスッ…なにも悪くないのに……ううう…」
先輩がポロポロ涙を流して泣いて。
あんなに殴られても蹴られても全然泣かなかった人が。
……わたしの話で泣いていたんだ。
そして……
「高木さんは強いね。……ううん、違う。……歯を食いしばって……頑張ったんだね。偉いなあ……尊敬する」
衝撃が私の心を突き抜ける。
(ああ…わたしは…)
生まれて初めて。
――報われたんだ。
※※※※※
私は初めて。
男の人を好きになった。
こんなに優しい人に出会ったのは初めてだったんだ。
私はきっと。
過去に色々あったんだろう。
多分だけど。
――狂っているんだろう。
だって分かってしまう。
(もうこの人しか欲しくない。――本田先輩だけいればいい)
これは運命だ。
他は何もいらない。
だから。
ずっと先輩だけを見続けていたんだ。
なのに先輩は。
私を裏切って違う女を選ぶ。
幸せそうな顔。
素敵な顔。
どうして?
それはわたしだけのものなのに。
ああ。
きっとこの世界では。
わたしたちは一緒になれないんだ。
じゃあさ――
(一緒に死のう)
そして違い世界で幸せになろうね。
(大好きだよ……本田先輩)
冷たい柄に、暖かな赤いものが滴る。
大好きな先輩。
その身体が小刻みに痙攣していた。
喧騒が遠のく――




