第6話 石の冷たさに、体温の記憶があった
朝の光が、宿の窓から斜めに差し込んでいた。
ベッドの上でタブレットを開き、昨日メモしておいた断片を読み返す。
子どもたちの後ろ姿。石の広場。擦れた跡の円形。アトラスの示唆。
書けそうだ、と思った。
書き出しを探しながら、指を動かし始める。
コラムとして書くのだから、子どもたちの集会を「謎」として暴く必要はない。
ただ、この町で見つけたことを書けばいい。
ヴァルタには、波が返ってくるように、大切なものが戻ってくる——そういう文章を。
一時間ほどで、ひと通り書けた。
読み返す。
書き足す。
削る。
最後の一文を何度か書き直した。
「百年前の大人が決めたことを、今は大人が知らない形で子どもたちが続けている」という事実をどう着地させるか、それだけで三度消して書いた。
最終的に、こう締めた。
「習慣に解散議事録は要らない。ヴァルタでは、波が折り返すように、大切なものが戻ってくる」
「——いいと思いますよ」
アトラスが言った。
「最後の一文、三回目で正解が出ましたね」
「見てたの」
「全部」
「……感想は言ってくれてよかったんだけど」
「言うと手が止まると思ったので」
それは正しい判断だ、と思ったので何も言わなかった。
送信ボタンを押す。
画面の端に「受信確認」の文字が出て、『遊覧記』編集部のマークが点滅する。
よし! と思った。
書きたいものが書けたときの感覚だ。この町のことを、ちゃんと言葉にできた。
これで仕事は終わった。
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荷物をまとめて、サイドケースに詰める前に、もう一度だけ、行きたい場所があった。
白教会裏の広場だ。
坂道を上がる。
砂利が靴底の下で鳴る。
上段の路地は静かで、朝の空気がひんやりと冷たかった。
白い塗り壁の教会の脇を通り抜けて、裏手に回る。
広場は、静かだった。
石の地面が朝の光を平らに受けて、白く輝いている。
昨日も一昨日も、同じ光がここに差していたはずだ。
ただ、今日はそれが分かる。
知っている場所と、ただ通り過ぎた場所は、同じ光の下に立っても見えるものがちがう。
空が高い。
防波堤の向こうの海よりも、まだ青い。
その青さの底に、うっすらと雲が溶けかけていた。
風が吹いた。
頬の片側だけを冷やして、すぐに去った。
髪が揺れて、また静まる。
広場には音がなかった。
自分の呼吸が、少しだけ聞こえた。
一番大きな石に、腰を下ろした。
「あ」
思ったより、ちゃんと座れる。
高さがちょうどいい。
長い時間、ここに座っていられる高さだ。
石の表面がつるりとしていた。
手のひらを置くと、冷気が指先からゆっくりと上がってくる。
宿の石壁と同じ、体温を黙って吸っていく花崗岩の冷たさだ。
座った場所だけ、表面がなだらかに丸みを帯びている。
削ったのではなく、撫でられ続けた形だ、と分かる。
あちこちに同じ丸みが刻まれているのに、一番大きなこの石は特に深い。
何十人もの子どもの後ろが、何十年もかけて石を押し続けた。
手のひらをそこに重ねる。
冷たい。でも、その冷たさの下に、何かが残っている気がした。体温の記憶とでも言えばいいのか——うまく言葉にできないが、胸が温かくなった。
何人もの子どもたちが、ここに座ってきた。
何年も、何十年も。
背丈が変わるたびに座り直して。
それでも、この石に。
「ここから海が全部見えるんだね」
湾が、広がっていた。
大堤が左に向かって弧を描き、花崗岩の石積みが朝の光を正面から受けている。
白くない。黄みを帯びた灰色で、よく見ると石と石のあいだに細い影が走っている。
百五十年分の継ぎ目だ。
桟橋堤の内側に、漁船が帆を下ろして並んでいた。
戻ってきた船と、これから出ていく船が混じっているのかもしれない。
甲板に人影が動いているのが、ここからでも見えた。
大堤の先、クラヴォ岬のずっと向こうに、灯台が立っていた。
灰色の柱に白い頭。
今は点いていない。
でも存在している、ちゃんと。
霧はなかった。
海と空のあいだに境目がある、晴れた朝だ。
青い、という言葉だけでは足りない色が、
岬の向こうまでまっすぐ広がっていた。
「海を見渡せる場所で、海の安全を話し合っていたんですね」
アトラスが静かに言った。
「うん」
わたしは、しばらく答えなかった。
海を見ていた。
子どもたちが毎年ここに座って、今年の海を振り返った。
今年は流れが変わった。
あの岩場は近づいちゃいけない。
来年気をつけよう。
三十年間、その会話がここで続いてきた。
記録簿もなく、規約もなく、名前もなく。
ただ、一番年上の子が一番年下の子に「来年も来い」と言い続けて。
大人が作って、大人が捨てた。
子どもが拾って、三十年続けた。
「……いい場所だなあ」
ほかの言葉が出てこなかった。
でも、それで足りた。
こういう気持ちに、前世のわたしは一度も名前をつけられなかった。
風が吹いた。
アトラスは何も言わなかった。
ページが、少しだけ温かくなった気がした。
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宿に戻って、荷物をバイクのサイドケースに積んだ。
着替え、タブレット、充電器。
ひとつひとつ確認して、留め具を締める。
宿の主人が、玄関先で見送りに出てきた。
「お発ちですか」
「はい。お世話になりました」
「また祭りの時季においでなさい」
短いやり取りだった。
それで十分だった。
バイクのエンジンをかける。
低い音が路地に響いて、石壁に反響した。
坂道を登って、見晴らし石のところで一度、止まった。
振り返る。
眼下に、ヴァルタの三段の屋根が広がっていた。
最初にここに立ったとき、夕方の光が「その灰色をじわりと暖かみがある色に変えていた」と書き留めた。
今は朝だ。
同じ石板の屋根が、ちがう光の角度を受けて、澄んだ青みがかった灰色に輝いている。
乾いた色だ。一枚一枚が、輪郭をくっきりと持っている。
一番下の段——波止場通り。
もう荷車の音がしているのが、ここまで聞こえてくる。
真ん中の段——市場広場の噴水の頭が、屋根の合間からのぞいている。
カライエの煙突から、細い煙が立ち上っていた。
今日も焼いている。
一番上の段——白教会の白い壁。
あの裏に、さっきまで座っていた石がある。
あの石から、この景色のいちばん遠い海まで、全部つながっている。
防波堤の向こうに、海。
来てよかった、と思った。
ヴァルタに、じゃない。
好きな場所に行って、好きなものを食べて、面白い話を見つけて記事にする。
前世では、それが最後まで、できなかった。
——わたし、この世界に来てよかった。
少しだけ、目を細めた。
「ねえ、次は温泉町! 道は調べてある?」
「港街道を北に三十キロです。途中に峠越えがありますよ。標高が少し上がります」
「問題ない!」
「雲の動きから見ると、昼前には峠を越えられそうです」
「完璧じゃん!」
ヘルメットをかぶって、シールドを下ろす。
エンジンの音が変わった。
アクセルを開く。
おっ! と思った。
海風が体当たりしてくる。
砂利の坂道を登りながら、ヴァルタが少しずつ小さくなっていく。
見晴らし石のところで、もうふりかえらなかった。
山道に入ると、木々が両脇から迫ってきた。
枝の天井が道の上に閉じて、光が細く差すだけになる。
来たときと同じ松の林だ。
でも匂いがちがう。
最初は潮の匂いが混ざっていた。
松と塩と、海の底の何かが混ざり合った匂い。
それが少しずつ、純粋な松だけの匂いに変わっていく。
どこで切り替わるのかは分からない。
気づいたときには、もう海の気配がなくなっていた。
ヴァルタが、匂いの記憶になった。
それで十分だと思った。また来ればいい。いつか来るかもしれないし、来ないかもしれない——どちらでも、この道をまた走る理由になる。
峠を越えたら、温泉の匂いがするだろうか。
楽しみ、と思った。
アクセルをさらに開いた。




