第5話 解散議事録は、習慣に効かない
翌朝、子どもたちとすれ違った。
上段からおりてきた坂道の途中。
東から差し込む朝の光が、石畳に斜めに当たっていた。
角度がまだ低くて、石と石のあいだの目地が細い影を作っている。
光を受けた面だけが、濡れたように鈍く白く光っていた。
踏むたびに、足の下で光が動く。
子どもたちは三人ほどの固まりで、普通に歩いていた。
話しながら。笑いながら。
ただ、何か違う。
「……やることをやった、みたいな顔だ」
思わず呟いてしまった。
違うのは顔だった。
緊張でも、疲労でも、放心でもない。
「済んだ」という顔。
何かをちゃんと終えた後の、静かな落ち着き。
一番年上らしい子が、視線に気づいてこちらを見た。
わたしが笑うと、少しだけ笑い返して、すぐに下を向いて歩いていった。
あの顔だ、と思った。
昨夕、坂道を上がっていくときに見た顔とは、少し違う。
あのときは「向かう」顔だった。
今朝は「戻ってきた」顔。
子どもが、こんな顔をするんだ——と思った。
尊敬に近い何かが、胸のあたりをじわっと押した。
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部屋に戻って、アトラスを開いた。
「整理する」
「はい」
アトラスのページが、静かに開かれた。
光が淡くにじむ。
わたしはベッドの縁に腰かけて、昨日からの断片を声に出した。
「子どもたちが消えた。毎年、霧祓い祭の一週間前。同じ日、同じ時間帯。全員が統一して、夕方にいなくなって、夜になったら戻る」
「ええ」
「宿の主人は"毎年のことだから"と言った。心配している様子はなかった」
「はい。どの親御さんも同じでしたね」
「翌朝——さっきの子どもたちの顔は、怯えた後の顔じゃない。やることをやった後の顔だ」
部屋の奥の窓から、港が見えた。
朝の光が海面でぶつかって、細かく散っている。
「もう一つ」とわたしは続けた。
「昨日アトラスが言ってたこと——漁師組合に"海洋安全自治会、子ども部門"があって、三十年前の解散議事録で廃止されたって」
「記録にはそう書いてあります」
「うん。それと古い地図の"集会場"。白教会の裏の広場が、観光案内に載ってない集会場として記録されてた」
「三つ並べると、一本の線になりますね」
「あ——そうか。まだなってないけど、なりそうな気がする」
わたしは立ち上がって、革ジャケットを手に取った。
「行ってみる。白教会の裏」
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朝の上段は人が少なかった。
石畳が途切れて砂利道に変わると、靴底に伝わる感触が変わった。
固い石の反響から、砂を踏む鈍い感触へ。
坂道の両脇は石壁が続いていて、陽が完全には届かない。
壁の漆喰が黒ずんでいる分、その先の空の青さが目に刺さるほど明るかった。
坂を上がり切ったとき、白教会の外壁が視界に飛び込んできた。
青空を背に、純粋に白かった。
その白さは塗り直した白だ。
何代にもわたって同じ白を保ってきた、手入れの白。
朝の横光が外壁をなめるように照らしていて、石の凹凸がうっすら影になっていた。
どこを見ても汚れがない。ここだけ、別の空気が流れているみたいだった。
「危険な度胸試しだったら、怪我の記録が残るはずだ」
歩きながら考えを声にした。
アトラスが隣に浮いている。
「え、ちょっと待って——十数年以上続いて、一度も事故がない。子どもが何十人も岩場で何かやって怪我ゼロは、ありえない!」
「記録は調べてみましたが、過去二十年で子どもの怪我の記録はゼロです。医者の診察記録にも、それらしいものは見当たりません」
「だよね。それにあの顔。昨夕坂道を上っていった子たちの顔は、怖いものに向かう顔じゃなかった。どっちかというと、楽しみな顔だった」
「怖さを知っている顔でも、緊張した顔でもなかったですね」
「うん。度胸試しは違う」
教会の角を曲がる。
裏手に出ると、そこだけ風が止まった。
小さな広場だった。
霧の中で来たときとは、全部違って見えた。
あのときは輪郭がなかった。石も壁も地面も、すべてが灰色の湿った空気に溶けていた。
今は違う。朝の光が広場の隅まで届いていて、石ひとつひとつの形がはっきりしている。
四方を石垣と教会の壁で囲まれた、外からは見えない場所——それは変わらない。
でも今朝は、その囲まれた感じが、守られているように見えた。
そして——
「あった」
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わたしは膝を折って、石の地面に近づいた。
円形の擦れ跡があった。
朝の光が低い角度から差し込んでいるおかげで、それがよく分かった。
周囲の石は表面に細かい凹凸が残っていて、光を受けると細かい影がざらつくように見える。
でも擦れ跡のある部分だけが、色が違った。
灰色がかった周囲の石に比べて、その一帯だけ、くすんだ白に近い薄い色になっている。
まるで石から時間ごと削り出されたように、なめらかで、均一だった。
「これ……」
指先で触れた。
つるっとしていた。
凹凸がない。指の腹が、するりと滑る。
何十年分の子どもが、ここに座ってきた。
その体温が指先を通って伝わってくるような気がして、わたしは少しのあいだ、指を離せなかった。
横からの光が当たることで、その滑らかさがよく分かる。
周りの石は指を当てると引っかかりがあるのに、ここだけない。
一番大きな石が中央寄りに埋まっていて、そこだけ座るのにちょうどいい高さだった。
表面が、他の石より一段とつるりと磨り減っている。
日が当たる部分が、押しつけられた体温の痕みたいにほんのり温かかった。
「何年分だろう」
「形と大きさから見て、複数人が同じ円形に座り続けた跡です。毎年まったく同じ場所に、まったく同じ形で座らないと、ここまで均一な擦れ方はしません」
「形骸化した遊びだったら、場所がばらつくはず」
「そうです。子どもの遊びは崩れます。集合場所が毎年ずれる。でもこれは——」
「あっ——様式がある!」
思わず言葉が出た。
「場所が固定されてる。日付が固定されてる。座る位置まで固定されてる。これ、ちゃんと機能してる集まりの証拠だよ!」
「はい」
アトラスが静かに言った。
「形骸化した集まりが二十年以上、同じ石を同じように磨り続けることはできません」
わたしは立ち上がって、広場の奥へ歩いた。
そして——
湾が見えた。
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広場の端に立つと、視界が一気に開ける。
息を飲んだ。
霧の朝に来たとき、ここは何も見えなかった。
灯台も、防波堤も、漁船も——全部が白い幕の向こうに消えていた。
今は違う。
朝の快晴の光の中に、湾が全部ある。
防波堤の白が、海面の青に鋭く縁取られている。
桟橋堤に並んだ漁船の帆柱が、細い影を水面に落としている。
クラヴォ岬の先で、灯台が日の光を受けて白く輝いていた。
灰色の石の塔に白い頭——今は灯す必要がない、昼の顔。
海の青さが、目が痛くなるほど鮮やかだった。
これが霧の晴れた、ヴァルタの朝だ。
「ここから、海が全部見えるんだ」
「集会場として使うには、理にかなった場所ですね」
頭の中で、何かがつながり始めた。
息が、少し止まった。
ゆっくりと、糸が引き寄せられるように。
子どもたちが集まって、海を見渡せる場所で、何かを話し合う。
毎年同じ日に。
毎年同じ場所で。
海洋安全自治会、子ども部門。
今年の海で気になったこと。
来年気をつけること。
それが三十年前に、廃止されたはずで——
「——あー、あのとき言ってた」
声が、自分でも思わないほど静かに出た。
「なに?」
「アトラス、一昨日の夜。ウンダ亭で言ってた」
「……ええ」
「"解散議事録には廃止って書いてあるけど、子どもたちの集まりに解散議事録って効くんでしょうか"——って」
「言いました」
一瞬の沈黙。
「あのとき、わたし"まあ昔の話でしょ"って流した」
「流しましたね」
「……《《意地悪だ》》、アトラス」
「気づいてほしくて言ったんですけど」
気づかなかった。
でも今は分かる。
「大人が廃止した」
わたしはゆっくりと言葉を出した。
湾を見渡したまま。
「三十年前、漁師組合が解散して、議事録に廃止って書いた。子ども部門の活動も、書類の上では終わった」
「はい」
「でも子どもたちは——集まり続けた」
「……三十年間」
アトラスが続けた。
「翌年も来た。その翌年も来た。上の学年が下の学年に伝えた。"同じ日に、同じ場所に来い"って。それだけ伝えれば、続く」
「規約も記録も名前も要らない」
「要らなかったんでしょうね」
わたしは広場の中央に戻って、一番大きな石に座った。
つるりとした石の表面が、朝の冷たさを保っていた。
「ここに何十人もの子どもが座ってきた」
今年のことを話した。
去年のことを聞いた。
来年気をつけることを決めた。
名もない集会。
旗も、記録簿も、公式の役割もない。
ただ、毎年。
同じ日に。
この石に座って。
海を見て。
「大人が作って、大人が捨てたものを」
声が、少し詰まった。
言葉のあいだに、ほんの少しの間が入った。
「子どもが拾って、《《続けてるんだ。三十年間》》」
アトラスは何も言わなかった。
風が吹いた。
広場を抜けて、湾の方へ流れていった。
わたしはしばらく海を見ていた。
なんか、くる。
目の奥が熱くなって、抑えようとしたけど、どうにもならなかった。
慌てて視線を空に向けた。
こういうとき急に大人ぶりたくなるのは、たぶん昔からそうだ。
「……いい話じゃん」
声になったのは、それだけだった。
「いい話ですね」
アトラスが静かに言った。
それだけで十分だった。
「絶対記事にする!」
「どんな記事になりますか」
「子どもたちの話は書かない。ここを知ってる大人が読んだとき、変なことになったら嫌だから」
「では」
「町の話として書く。波が折り返す町、ヴァルタ。——制度に解散議事録は書ける。でも習慣には要らない。っていう感じで」
「それはいい記事になりますね」
「なる!」
わたしは石から立ち上がって、もう一度湾を見た。
朝の光が満ちて、海が青かった。
防波堤の白、漁船の帆柱、岬の灯台。
霧が晴れると、海が青い——そういう町だ。
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「アトラス、ひとつだけ聞いていい?」
「どうぞ」
「子どもたちは今日も、来年の約束をしたと思う?」
「……したと思います」
「そうだよね」
今年の上段に住む一番年上の子が、一番年下の子に言う。
来年も、同じ日に、同じ場所に来い。
その一言が三十年間、途切れなかった。
「誰かが最初に、続けようと思ったんだよね」
「三十年前。大人が解散を決めた、その翌年に」
「そのとき、その子は何年生くらいだったんだろう」
アトラスは答えなかった。
分からないことは、答えない。
それがアトラスだった。
「まあ、いいか」
わたしはジャケットの首元を立てた。
「記事に書けることと、書けないことがある。書けないことが一番大事なこともある。それはそれでいい」
「リゼット」
「うん」
「この町に来てよかったですね」
少し驚いて、アトラスを見た。
緑色の表紙が、朝の光の中で静かに光っていた。
こういうことを言ってくれる。
それが、うれしかった。
「……うん」
わたしは笑った。
「来てよかった」




