第4話 夕日の坂道と、消えた子どもたち
夕方、宿に戻ったところで、主人に声をかけられた。
「今日は子どもたちがいなくなる日ですから」
受付の前を横切ろうとしたわたしに、大きな体の男が言った。
禁止ではない。
案内でもない。
「そういうものだから」という、それだけの言い方だった。
「上段に行かないほうがいいですよ。まあ、夕方のうちは」
「なんでですか」
「毎年のことです」
それ以上は言わなかった。
大きな手を受付のカウンターに戻して、主人は帳面に目を落とした。
わたしは階段を上がりながら、頭の中でその言葉をもう一度転がした。
ふーん、毎年のこと。
---
部屋の窓から、港側ではなく、広場の方向を見た。
空が低くなっていた。
太陽が西の丘の稜線に近づいて、光の角度が急になっている。
石畳の表面に、真横から差し込むような光が当たっていた。
路地の奥まで金色の帯が伸びて、石の継ぎ目ひとつひとつが黒い線として浮き出していた。
いつもより長い影が建物の壁を這い、上段へ向かうにつれて影が濃くなっていく。
蜂の巣色をした石畳が、ほんの少しだけ琥珀に変わる時間。
晴れた日の夕方にだけある、世界が金色に傾く、ごく短い間だ。
鎧戸を押し開けて身を乗り出した。
ひんやりした風が額に当たった。
市場広場の方向に、上段へと続く坂道が見える。
子どもが、登っていた!
一人じゃない。
三人、四人、それ以上。
どこかから集まってきた子どもたちが、固まって坂を上っていく。
六歳くらいの小さい子から、十五歳くらいの背の高い子まで、年ばらばらに十人以上。
夕日が坂の正面から当たっていた。
子どもたちのシルエットが黒く縁取られて、そのくせ輪郭だけが金色に光っていた。
布の袋を背負った子、手ぶらの子、小さい子の手をつないで坂の段差を越えさせている背の高い子。
喋りながら登っていた。
肩を並べて何か話しながら、坂道を上がっていく。
真剣な顔ではなかった。
緊張した顔でも、怖い顔でも、嫌そうな顔でもなかった。
秘密の楽しいことに向かう子どもの歩き方、というのがある。
大人には教えないが、自分たちだけが知っている、そういうことへ向かうときの、少し早くなる足と、押さえきれない話し声。
あ、あれだ、とわたしは思った。
胸のあたりがほんの少し、温かくなった。
それから、ほんの少しだけ、羨ましくなった。
「ねえ、アトラス」
振り返らずに呼んだ。
「見てる? 上段の坂道」
「……見えませんが、何かいますか」
「子どもたちが登っていく。十人以上。みんなで固まって、喋りながら」
「主人が言っていた"毎年のこと"ですね」
「そう」
わたしは窓枠に肘をついて、子どもたちの後ろ姿を目で追った。
坂の途中で列が折れ曲がって、先頭が見えなくなる。
最後の一人が角を曲がると、坂道は空になった。
それなのに、今の今まで子どもたちがいた気配が、まだそこにある気がした。
音が消えたのに、残響だけが石畳に漂っているみたいな感じ。
夕日の光だけが、石畳の上に残った。
---
一時間後、散歩がてら上段まで歩いてみた。
坂道を登っていくと、途中から砂利道になる。
石畳が途切れて、足元の感触が変わる。
夕方の風が斜めから当たって、髪を押した。
上段の路地は、静かだった。
静かというより、空っぽだった。
両側に石造りの家が続いている。
壁は灰色の花崗岩で、漆喰の目地が黒く変色して縞模様になっている。
どの扉も閉まっていた。
鉄のノブが夕日を受けて鈍く光っていたが、それだけだ。
窓が二枚、三枚。
薄いレース越しに、ろうそくか何かの揺れる光がにじんでいる。
誰かがいる気配はあった。
ただ、表に出ようとする気配がない。
夕方の外気に、家の中の暖かい空気が混ざった匂いがした。
煮ものか、なにか甘いものか。
でも声は聞こえなかった。
路地の奥まで歩いてみた。
石畳が途切れて砂利になる場所まで進んだが、誰もいなかった。
鳥の鳴き声と、遠くの波の音だけ。
え、さっきあれだけいた子どもたちが、跡形もなくなっていた。
こういうとき、不気味だとか、怖いとかより先に、わたしは「知りたい」と思う。
どこ、と。どうして、と。
子どもたちはどこへ行ったんだろう。
白教会の前まで来た。
白くない、と思った。
外壁が、夕日を受けて橙色に染まっている。
いや、橙でもない。
焼けた石が持つ色——琥珀と煉瓦の間みたいな、名前のない暖かい色だ。
真っ白なはずの塗り壁が、この時間だけはそういう色になる。
鐘楼の影が広場を横切って、長く伸びていた。
教会の正面に刻まれた浮き彫りが、斜光の中で立体的になり、普段とは別の顔に見えた。
裏手に回ってみようかと思って、少し迷った。
主人は「行かないほうがいい」と言った。
禁止ではない。
でも、今日の夕方は行かない方がいい、という意味で言ったとしたら。
わたしは教会の正面で少し立ち止まって、そのまま引き返すことにした。
行きたかった。でも、この町の「今日」には、よそ者が踏み込んでいい時間と、そうでない時間があるような気がした。その感覚を、大切にしたかった。
坂道を下りながら、アトラスを呼び出した。緑色の辞典が、歩調に合わせて隣に浮かぶ。
「白教会の裏手に、広場があるんだよね」
「はい。古い地図に記載があります。観光案内には載っていない広場ですね」
「今日の子どもたちは、そっちに行ったと思う?」
「……どうでしょう」
アトラスは珍しく、すぐに答えなかった。
「公開情報では分からないことです」
「だよね」
わたしは砂利道を踏みながら、夕暮れの空を見上げた。
水平線の方向が、橙から茜に変わりかけていた。
海の端が燃えているみたいな色だ。
---
夜に戻ると、上段の方向から子どもたちの声がした。
時刻は九時を少し回ったくらい。
宿の部屋の窓を開けていたら、外から声が聞こえてきた。
何人かが一緒に話している。
大きな笑い声ではなく、穏やかな、何かを話し終えたあとみたいな声だ。
それから少し遅れて、窓に灯りがついた。
あ、と思った。上段の方向に目を向けると、暗かった家の窓がひとつ、温かい色に変わった。
続いてまたひとつ。
少し間を置いて、またひとつ。
ちょうど、石畳を踏む小さな足音が点いてまわっているみたいに、灯りが坂を下りてきた。
帰ってきた!
肩から、何かが抜けるみたいな気がした。
ちゃんと戻ってきた、という、それだけの安堵。
わたしはベッドに座ったまま、窓の外の気配を聞いていた。
「アトラス」
「はい」
「子どもたちが戻ってきた」
「……ええ」
「夕方に上段の坂道を登っていって、夜に帰ってきた。主人は"毎年のことだから"と言った」
「そうですね」
「毎年《《同じ日》》に全員が消えて、全員が戻る」
わたしは窓の外に目を向けたまま、続けた。
指先がわずかに動いた。書き留めたいときに、いつも出る癖だ。
「これ、何かあるよね!」
アトラスはすぐには答えなかった。
ページが一枚、音もなく翻った気がした。
「……宿の主人は、止めませんでしたね。心配している様子もなかった」
「そう。禁止でも危険でもない、という言い方だった」
「でも、理由は言わなかった」
「言わなかった」
わたしは宙に浮かぶアトラスの表紙をそっとなぞった。
港側の窓から、灯台の光が壁を横切った。
一定の周期で、静かに。
外では、上段の家々の声が少しずつ小さくなっていく。
子どもたちが、それぞれの家に入っていくのが分かる気がした。
毎年同じ日に。
毎年同じように。
「記事になるかもしれない」
「かもしれませんね」
アトラスが静かに言った。
「でもまず、何が起きているのかを知らないと」
「そうだね」
わたしはしばらく、灯台の光が壁を横切るのを見ていた。
規則正しい光。
決まった時間に、決まったように点く。
毎年のこと、と主人は言った。
その言葉には、怖さも、困惑も、怒りもなかった。
ただ「そういうもの」という、長年の当たり前みたいな静けさがあった。
「明日、もう少し調べてみる」
「一緒に考えます」
わたしは窓を閉めて、ベッドに横になった。
灯台の光が天井を横切る。
一回、また一回。
子どもたちは今頃、家に帰りついているだろう。
どんな顔をしているんだろう。
それが少しだけ、気になった。




