第3話 教会の裏に、五十年前の名前があった
目が覚めたとき、部屋の中が白かった。
窓の外に霧が来ていた。
昨夜は灯台の光が定期的に壁を横切るのを見ながら眠ったのに、
今朝はその光さえ霞んでいる。
霧の朝だ。
ベッドから出ると、石壁がひんやりとした。
手のひらで触れると、体温をゆっくり吸い取られる。
夏でもこの冷たさは変わらないらしい。ヴァルタの石は、季節をわきまえていない。
着替えて、靴紐を結んだ。
「朝市、行ってみよう」
声に出したわけじゃないのに、そういう気分だった。
靴紐を結び終えたとき、もう体が先に動いていた。
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外に出ると、霧が肌に触れた。
水分というより、空気そのものが白くなっていた。
視線の先、三十メートルほどで石畳の通りが溶けて消える。
そこから上は、すべてが均一な灰白色だった。
細かい水分が髪にも服にもつく。
前髪の一本一本に霧がまとわりつく感覚。
息をすると、肺に潮の匂いが入ってくる。
湾の匂いは、朝のうちが一番濃いらしい。
昨夜、アトラスがそう言っていた。
「干潮が近いと、磯の匂いが甘くなるんです」と。
確かに、少し甘い気がした。
磯の塩気に、藻の青臭さが混じったような、
湾の底から上がってきたような匂いだった。
石畳は濡れて光っていた。
石の目地に霧が溜まって、路面全体が薄く鏡になっている。
一歩踏み出すたびに、足元で光が動く。
曇っているのに、地面だけが鈍く輝いている。
建物の軒先から、霧の雫がぽつりぽつりと落ちていた。
その音がやけにはっきり聞こえた。
霧の中の町は、音も変わる。
荷車の音、市場から届く呼び声、海鳥の鳴き声。
ぜんぶが綿越しに聞こえるような、丸みのある音だった。
遠くの音が近く聞こえて、近くの音が柔らかくなる。
霧は距離感を狂わせる。
市場広場に向かって歩いた。
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広場に着くと、朝市が始まっていた。
旧魚市場跡の広場は、霧の中に浮かんでいた。
正面の噴水が白く滲んで、その周囲に屋台の輪郭が並んでいる。
あ、と思った。近づくにつれて、一軒ずつ形になっていく感じが面白かった。
屋台がいくつか並んで、地元の人たちがもう買い物をしている。
祭りの一週間前だから、出店が多い。
干物の屋台、小ぶりの果実を積んだ台車、手編みの網が吊るされた細長い屋台。
人の話し声や荷物を置く音が、霧の中で柔らかく混ざり合っていた。
煙が立ちのぼっている屋台があって、何かを焼いているらしい。
おっ——カライエの屋台を見つけた瞬間、焼きたてパンの匂いが来た。
最初の一撃は、カラシ種の香ばしさ。
次の瞬間、その下からバターと焼き小麦の甘い芯が追いかけてくる。
霧が匂いを閉じ込めているのだろうか。
湿った白い空気の中を、その匂いだけが鮮明な筋を引いて届く。
周囲の磯の塩気が、かえって引き立て役になっていた。
思わず足が止まった。
屋台の格子棚に、丸パンが整然と並んでいる。
こんがりとした茶褐色——焦げ目の入り方が均一で、
表面にカラシ種の粒が焼き付いて、小さな黒い点を作っている。
湯気はもう出ていない。焼き上がってしばらく経った、
ちょうど持ち歩けるくらいの温度だろう。
「一つください」
受け取った瞬間、手のひらがはっとした。
霧の中を歩いてすっかり冷えていた手に、
パンの熱がじわりと入ってくる。
丸くて小さい。でも手のひらに確かな重みがある。
冷たかった指先が、じんわりと戻ってくる感じがした。
その場でかじった。
パリッ——
音がした。思ったより大きく、はっきりした音が。
外皮が小気味よく割れて、手のひらに細かい欠片が散る。
断面は薄い黄みがかった白。きめが細かい。
歯を押し返してくる弾力があって、嚙み込むほど生地の重みが伝わってくる。
「……っ! なにこれ」
一拍遅れて、辛みが来た。
じわっ——と舌の奥から広がるような、カラシ種の熱。
刺す辛さじゃない。丸い辛みだ。
香ばしさと一緒に喉の奥まで続いて、
呑み込んだあともしばらく消えなかった。
朝からこれは反則だ!
「うまっ」と声が出た。
「朝市って正義だよね!」
誰に言うでもなく呟いて、もう一口かじった。
霧の中で食べるパンは、なぜかもっと美味しい気がした。
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ひとしきり広場を歩いた。
魚の干物、小ぶりの果物、手編みの網。
祭りの準備で物売りが増えているらしく、
朝食のとき宿の主人が「今週は賑やかですよ」と言っていた。
買い食いしながら市場を一回りして、ふと上を見た。
丘の上に白い建物が見える。
霧の中でも、あの白さははっきりしていた。
「白教会、行ってみようかな」
昨日の夕方に坂の上から見下ろしていたけど、まだ近くで見ていない。
特に用があるわけじゃない。
ただ、霧の朝に丘の上から海を見たら気持ちよさそう。
それだけだった。
漁師段を登り始めた。
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段の石は中央がすり減っていた。
何代もの人間が同じ場所を踏んできた証拠だ。
踏み固められた石は、すり減るほど存在感が出てくるのが面白い。
息を切らしながら上段まで登ると、霧が少し薄かった。
丘の上は、霧が下に溜まるぶん視界が開けている。
砂利道を歩いて白教会の正面に出た。
外壁はほんとうに白かった。
石を積んだ建物に、白い塗装が何度も重ねられている。
よく見ると塗り直した跡がわかる——古い層の上に新しい白が乗って、
端や角のところでわずかに剥げて、その下の灰色が覗いていた。
何代も塗り重ねた白さだ。
曇り空の白と溶け合うような白さではなかった。
曇り空が薄ぼんやりとした白なら、
この教会の白はもっと主張のある白だった。
乳色に近い、重みのある白。
霧の中でも、あの白さははっきりしていた理由がわかった気がした。
「綺麗だな……!」
一歩引いて、もう一度見た。曇り空の下でも、あの白は揺るがなかった。
どんな空の色の日でも、ここだけ白いんだろうと思った。
そのまま教会の周りをぐるりと歩いた。
裏手に回ったとき、広場があった。あ、と思った。
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小さな広場だった。
石畳が途切れて、石の地面が続いている。
木は一本もない。
囲うものもない。
教会の白い壁がすぐ後ろにあるのに、
正面はどこまでも開いていた。
地面の石は、砂利ではなく平たい石板が並べてあった。
継ぎ目の目地には苔が入り込んで、緑の筋が走っている。
中央あたりに、円く擦れた痕があった。
長いあいだ同じ場所に座り続けた石は、
接するものの形に合わせてつるりと磨り減る。
一番大きな石の表面が、ちょうど人が腰を下ろすのに合うような
なだらかな凹みになっていた。
しん、としていた。
教会の裏にいるのに、あるいは裏にいるからか、
ここだけ音が落ちていた。
霧が静けさを閉じ込めているようだった。
ただ、開いている。
足を踏み入れたとき、何かが切り替わった気がした。
踏んでいい場所なのか、一瞬だけ迷ってから、でも入った。
そこに立って前を見たら、息が止まりそうだった。
「わ……!」
湾が——全部見えた。
霧が薄い幕のように湾の上に広がっていて、
その奥に水と空が溶け合う薄い群青が滲んでいた。
霧の中を透かして、大堤の輪郭が見える。
花崗岩を積んだ古い防波堤は、霧の中でも線が揺らがない。
百五十年分の重さが、霧ごとき白さに負けていなかった。
漁船が並んだ桟橋堤も見える。
船体が霧の中に半分沈んでいて、マストだけが浮いているように見えた。
霧に滲んで、クラヴォ灯台が白く溶けている。
灰色の塔と白い頭部の境目がわからなくなって、
岬の先端だけがぼんやりと発光していた。
三段に重なる町の屋根が、海に向かって降りていく。
青みがかった灰色の石板屋根が、霧を吸って黒く濡れている。
その段々の向こうに、湾の薄い群青。
一秒、何も言えなかった。
「すごい……!」
声が出た。自分で言ってから、それ以上の言葉が出てこなかった。
こんな場所があったのか。
観光案内には載っていない、とアトラスが言っていた。
でもこれは教えてくれてもいいんじゃないか。
アトラスを呼び出した。
緑色の辞典が目の前にふわりと現れる。
霧の中でも表紙は乾いていて、不思議とぬくもりがあった。
「ねえ、この広場——何か分かる?」
ページが淡く光った。
「……古い地図に記載がありますよ」
アトラスの声は、霧の中でもはっきり届いた。
「"集会場"と書いてあります。観光案内には載っていませんが、
五十年以上前の地図には名称がある」
「集会場? 何の?」
「分かりません。記録にはそれだけです」
アトラスが少し間を置いてから付け加えた。
「地図には場所の名前しかないので。
どんな集会だったのかは、ここには出てきません」
わたしは「ふーん」と言った。
集会場、か。
教会の裏手にある広場。
知る人ぞ知る、みたいな場所。
でも今この瞬間、それより気になることがあった。
眼下の景色の方が、ずっと気になった。
「……でも、いいね。ここ」
「そうですね」
アトラスが静かに言った。
「海を全部見渡せる場所です」
霧が薄くなっていた。
湾の輪郭がだんだん鮮明になってくる。
灯台の光が、霧に散って岬の周囲を淡く白く染めていた。
灯台は霧の中でこそ光る。
さっきカライエで食べたパンと同じだ。
霧の中だと、なんでも際立つ気がする。
しばらく、そこに立って海を見ていた。
アトラスも何も言わなかった。
ページが微かに光ったまま、ただ静かにそこにあった。
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宿に戻るとき、漁師段を下りながらコラムのことを考えた。
「ここから海が全部見えて、霧の中に灯台が溶けてる。
書き出しになりそうだな」
「灯台の話、書くんですか?」
「かも。まだ考え中。ねえ、あと朝市のパンの話は絶対書く!」
「カラシ種の丸パン」
「そう! あの外皮のパリッとした音、どう文章にするか悩んでる」
「"割れる音が気持ちいい"でいいんじゃないでしょうか」
「そのまますぎる」
「シンプルなことをシンプルに書くのは難しいですよ」
アトラスが珍しく、真顔めいた言い方をした。
わたしは少し考えてから、うん、と頷いた。
なんか、旅してるな、と思った。
石段を踏む音が、霧の中で遠く響いた。




