第2話 イラカ貝と、反則なパン
荷物を崩さないまま、わたしは外に出た。
旅先に着いたら、まず歩く。それがわたしの流儀だ。地図を見てから歩くのではなく、歩きながら地図に書き足す。
市場広場から漁師段を下った。
急な石段で、中央だけが低くすり減っている。
何十年分もの足が削った溝だ。
石段を下りきると、下段の波止場通りに出た。
通りは狭い。
三メートルほどの幅の石畳が、桟橋堤に沿ってまっすぐ伸びている。
両側に食堂と鮮魚の卸問屋が肩を寄せ合うように並び、二階の窓には干した網が幕のようにかかっていた。
匂いが濃い。
潮と油と、煮魚の蒸気。
それが渾然と溶け合って、通り全体に層を作っている。
最初は少し鼻をつくが、二十歩も歩けばもう気にならなくなっていた。
漁船が戻ってくるところだった。
桟橋堤に、一隻ずつゆっくりと入ってくる。
エンジンの低い音と、水をかき分ける音。
船体が堤に近づくにつれて、波が石に当たってやわらかく跳ね返ってくる。
船員たちが縄を投げ、地上の人間が受け取って柱に巻く。
手際がよかった。
毎日同じことを何百回と繰り返してきた手の動きだった。
それが、なぜかひどく美しかった。
うわ、と思った。
しばらく欄干に凭れて見ていた。
「あの縄の受け渡し、記事になりそうだなあ」
アトラスは特に返事をしなかった。それはわたしの独り言で、誰かに伝えるものでもないと、ちゃんと分かってくれているのだ。
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市場広場まで戻る途中、鰯小路を通ってみた。
看板もない。
ただ建物のあいだに隙間があって、入れそうだったから入っただけだ。
両側の石壁が頭上で迫り合っていた。
建物が古い年輪を重ねるうちに、少しずつ前へ傾いてきたのだろう。
空が、路地幅ほどの細い一筋になっていた。
細い路地が折れ曲がっていて、昼間でも薄暗い。
石畳の隙間から草が生えている。
湿り気を好む、背の低い青い草だ。
誰かが踏んだ跡はなく、小路の中央で伸び放題になっていた。
壁の漆喰がところどころ剥げていて、下の花崗岩の赤みがのぞいている。
石の表面に手を当てると、昼の熱がまだ残っていた。
猫がいた。
あ、と思った。
錆色の、太った猫が、路地の突き当たりで丸まっていた。
わたしが近づいても逃げない。
ただ目だけで追ってくる。
「こんにちは」
返事はなかった。でも尻尾がわずかに動いた。
それだけで、なんとなく嬉しかった。
路地を抜けると、夕焼けの光が石畳に長く伸びていた。
霞がすっかり晴れていた。
空が、赤と橙と少しの紫に染まっていた。
さっきまでいた鰯小路とは別の世界みたいだった。
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ウンダ亭は波止場通りに面した石造りの食堂だ。
引き戸は木製で、把手が黒く光っていた。
使い込まれた年月がそのまま手のひらに移ってくる感触だった。
引き戸を開けると、中の匂いが一気に出てきた。
白ワインと煮魚と燻製が混ざった、甘くて濃い匂い。
天井が低い。
壁は切り出したままの花崗岩で、隙間に白い漆喰が詰めてある。
油煙を吸った年月で、漆喰はところどころ薄い飴色に変わっていた。
床も石だ。
椅子を引くたびに低い音が響く。
照明はカウンターの奥に一本、テーブルの上に二本。
脂の煤けた笠の下から、黄色みの強い光が落ちてくる。
その光の中でグラスが鈍く光っていた。
テーブルが四つ。
三つは先客がいて、四つ目の窓際の席が空いていた。
窓は小さい。
海側に向いていて、外の夕暮れが切り抜いたように見えた。
女主人が一言「何にします」と言った。
「イラカ貝のパスタを」
「パンは?」
「ください」
それだけ言って彼女は引っ込んだ。無口だった。でも言葉が足りないのに全然感じが悪くなかった。聞かなくていいことを聞かない、それだけだった。
パスタが来るまで、港側の小さな窓から外を見ていた。
湾の水面が、夕暮れの色を映して鈍く輝いていた。
赤と橙と少しの灰色が、水の動きに合わせてゆっくりと混ざり合っている。
クラヴォ岬の先端に、灯台の灰色の塔が見えた。
灯台が、点いた。
あっ、と声が出た。
最初は一瞬だけ、白い光が走った。
次の瞬間、回り始める。
一定の周期で、湾の入り口を静かに照らす。
光が自分のほうを向くたびに、窓ガラスの内側に小さな白い点が映った。
水面が、明滅する。
「いつ点くの?」とアトラスを開きかけたら、先に答えが来た。
「日没の十分前に点くそうですよ。毎日」
「……ちょうどよく見られたな!」
胸の奥が、少し温かくなった。
「運がいいですね」
アトラスのページが少し明るくなった。嬉しい、と言葉にするかわりに、そういう反応をする。
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パスタが来た。
深い縁の皿に、平麺と大ぶりのイラカ貝が四つ。
スープが乳化して、白くとろりとしていた。
オリーブ油と貝の煮汁が抱き合って、皿の縁へ向けてゆるやかに揺れている。
貝の蓋は半開きで、橙がかった身がのぞいていた。
湯気がたった。
白ワインの酸みが鋭く鼻をつき、すぐやわらかい磯の香りに包まれる。
その奥に、なにか草のような、かすかに青い匂い——香草だろうか。
思わず顔を近づけた。
麺を一口すくった。
口に入れた瞬間、スープの熱さが先に来た。
それから貝の出汁が、舌の上にじわりと広がる。
甘い。最初に来るのは、きれいな甘みだった。
次に塩気が輪郭を作って、そのあとに白ワインの酸みがじわじわと追いかけてくる。
目を閉じていた。気づいたら、そうしていた。
……っ。
麺がスープをよく吸っていて、噛むたびに味が変わる。
「……なにこれ!」
「美味しいですか?」
「すごく!」
それ以上の言葉が出なかった。しばらくただ食べた。
貝を全部食べて、皿にスープが残った。
テーブルに置かれたカラシ種の丸パンを手に取った。
手のひらにちょうど収まる大きさだった。
表面がパリパリしていて、持つと軽い音がする。
指でちぎった瞬間、中から薄黄色がかった白い断面が出てきた。
湯気はない。でもほんのり温かかった。
ちぎった断面を皿のスープに押し当てた。
白いスープが、ゆっくりと染み込んでいく。
そのまま食べた。
「《《これは反則だ!》》」
やば、と思った瞬間、声に出てしまった。隣のテーブルの漁師らしき男性が少し振り向いた。
少し耳が熱くなったけれど、気にしないことにした。
パンのもっちりした生地にスープがしみ込んで、噛むと貝の甘みとカラシ種の辛みが同時に来る。
最後にカラシ種の香ばしさがふわりと残った。
単純な組み合わせのはずなのに、足し算じゃなくて掛け算になっていた。
「ここ毎日来たい!」
「滞在日数を考えると、あと四回は来られますよ」
「計算しないで!」
少し声が上がってしまった。「……でも、ありがとう」
アトラスのページが少し揺れた。笑っている、というか、それに近いものだった。
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食後、モルタを頼んだ。
小さな陶器のカップに、深い赤褐色の液体が注がれてきた。
表面がわずかに揺れている。
一口飲んだ。
「……おお」
苦い。舌の奥に、太い苦みがどっしりと落ちてくる。
その下に、土の匂いに近いなにかが潜んでいた。
焦がした豆の香りとも、乾いた草とも少し違う——この土地の、この豆の味だった。
食後の重さが、すっと落ち着く感じがした。
窓の外では、灯台の光がまた一周した。
アトラスを呼び出した。緑色の辞典が、テーブルの上にふわりと現れる。
「ねえ、記事の下調べをしよう。この町の霧祓い祭のこと、教えて」
「どこから話しましょうか」
「最初から」
ページが開いて、文字が流れるように並んだ。
「百五十年前から続いていますね。もともとは漁師組合が主催していました。冬の漁の安全と豊漁を祈る、一週間の祭りです」
「今は?」
「三十年前に組合が解散して、今は自治評議会と有志の漁師が運営しています。祭りの形自体はほとんど変わっていないそうです」
宿の主人が「来週から霧祓い祭ですよ」と言っていた。ちょうど一週間前に来たことになる。
「組合って、他に何かやってたの?」
「百周年記念誌に慣行一覧があります」
ページが変わった。
「漁獲の配分、港の使用権管理、競りの取り決め。それから——子ども向けの海洋安全教育も」
「海洋安全教育?」
「"海洋安全自治会(子ども部門)"と書いてあります。毎年霧祓い祭の一週間前に、子どもたちが集まって今年の海で起きたことを話し合う集会だったようです」
ページが進んだ。
「百年前に子どもの水難事故が続いて、作られたものだと」
「ふうん」
わたしはモルタをひと口飲んだ。苦みが舌の奥に残った。
「解散のときに廃止になったの?」
「解散議事録には廃止と書いてあります」
アトラスが少し間を置いた。
「……ただ」
「ただ?」
「解散議事録って、子どもたちの集まりに効くんでしょうか」
独り言のような、けれど確かにわたしに向けた言葉だった。
「……面白いこと言うね」
わたしは笑った。アトラスらしい、少しズレた視点だ。
そういうズレが、調べ物を面白くする。
「まあ、三十年前の話でしょ。今は形も残ってないんじゃない?」
「かもしれませんね」
アトラスのページが閉じた。
窓の外、灯台がまた光った。湾の入り口を、一定の間隔で照らし続けている。
モルタの残りを飲み干して、わたしは立ち上がった。
勘定を済ませて外に出ると、夜の潮の匂いがした。
昼より少し甘い。
干潮が近いのかもしれない。
波止場通りは暗かった。
食堂の灯りが石畳に細長く落ちているだけで、あとはどこまでも夜だ。
目が慣れてくると、頭上の空に星が出ているのが分かった。
漁師段を上がった。
石段の中央のすり減った溝に、夜露が溜まり始めていた。
踏むたびに靴底が濡れる感触がした。
中段に出ると、市場広場の噴水の音が聞こえてきた。
昼間は広場の喧騒に消えていたその音が、夜になって初めて耳に届く。
水が石の縁を打つ、低くて規則正しい音だ。
石畳の坂道を上がりながら、わたしは宿の灯りを見つけた。
ラ・キアッタの窓枠が白く光っている。
あの二階の窓の向こうに、わたしの部屋がある。
明日は朝市に行こう。焼きたてパンを食べよう。
港の夜は静かで、波の音だけがずっと続いていた。




