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前世で過労死したので、今度は異世界をバイクで一人旅しながら記事を書いてます 〜コラムニスト・リゼットのアトラス紀行〜  作者: somari


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1/3

プロローグ 住所は、バイクのサドルの上

山道が尽きたところで、突然、空が広くなった。


松の林の間をずっと走ってきた。

枝の天井が続いていた道が、ぱっと途切れて——。


バイクを路肩に停めて、エンジンを切った。

ヘルメットを脱ぐと、潮の匂いがした。

肺の奥まで、いっぱいに吸い込んだ。


「うわ……」


思わず声が出た。

息が、一瞬止まった。


眼下に、群青色の湾が広がっていた。


空気が澄んでいる。

霞が海と空の境目をぼんやりと溶かしていて、

どこからが海でどこからが空なのか、遠いほどわからなくなる。


弧を描く湾の内側に、石造りの家が三段に重なって海へ降りていく。

いちばん上の段には白い塗り壁の教会。

中段のこまかい屋根が、そのすぐ下にひしめいている。

さらに下、波際の一列が波止場通りだ。


屋根はどれも同じ、青みがかった灰色の石板。

夕方の光が斜めに差して、その灰色がじわりと暖かみを帯びている。

濡れた瓦のような深い色と、乾いた明るい色が混ざり合って、

屋根の連なりが一枚の織物みたいに見えた。


防波堤の先端が白い波をはね返している。

その向こうに岬が突き出して——先端に、灯台。

灰色の柱の、上部だけ白く塗られた塔。

まだ点いていない。


これは——一人で抱えておけない。


「ねえ、アトラス。見て!」


手を軽く振ると、空中に緑色の辞典が現れた。

分厚い表紙が淡く光って、ページがひとりでに開く。


「——ヴァルタに到着ですね」


落ち着いた声が、耳の近くで言った。


「予想より海が大きいです。湾口の幅は八百メートルほどだそうですよ」


「数字はいいから! 見てよ、この景色!」


「見ています」


一拍の間があった。


「……確かに。霞が海と空の境目を曖昧にしていますね」


アトラスのページが、かすかに温かくなった気がした。

感動しているのか、それとも夕日の光を受けているだけなのか。

どちらでもいい、と思う。どちらでも同じことだ。


「絶対コラムの書き出しにする」


わたしはもう一度、港を眺めた。


路肩に、大きな花崗岩が据わっていた。

表面が滑らかに磨り減っている。

ここで立ち止まった人間の、長い年月の分だけ。


見晴らし石(みはらしいし)と、地元の人たちが呼ぶ場所だ。


だろうな、と思う。

この景色なら、立ち止まる。


バイクのエンジンをかけて、砂利の坂道を下り始めた。

タイヤが小石を踏むたびに、ハンドルを通じて地面の凹凸が伝わってくる。

カーブが多い。速度を落として、慎重に。


坂を下るにつれて、石造りの家が両脇から迫ってきた。


壁は灰色の花崗岩。

隙間に詰めた白い漆喰が黒ずんで、石と石のあいだに細い縞模様を作っている。

年数だ、と思う。

百年分の雨が石に刻んだ模様。


ハンドルを切るたびに壁が近くなる。

肩が触れそうなほど道が狭い。

路地の空気がひんやりしていた。

上から光が差してこなくなって、石の冷たさが漂い始める。


バイクの排気音が壁に反響した。

こんな細い場所に音を立てて入っていく申し訳なさがあった。


坂の突き当たりに、噴水が見えた。

市場広場の中央の、石造りの噴水だ。


広場には人が行き交っていた。

魚を持った老人、買い物かごを抱えた女性、石段を駆け下りる子どもたち。

どの顔も、旅人を特別扱いしない顔をしている。

来たなら歓迎、という空気。

それが心地よかった。


宿の「ラ・キアッタ」は、市場広場から一本北に入った路地にあった。


三階建ての石造り。

窓枠だけ白く塗ってあって、二階には木製の鎧戸がついている。

入り口の上に鉄の看板——平底の小舟の浮き彫り。


扉を押すと、薪ストーブの温もりがあった。

あ、と思った。いい匂いだ。


「いらっしゃい」


受付の奥から、六十代の男が出てきた。

体格がよくて、手が大きい。

元漁師だ、とすぐに分かる種類の体の作り方をしていた。


「一人泊まり、二泊お願いします」


「二階でよければ」


「はい」


鍵を受け取りながら、男は言った。


「来週から霧祓い祭(きりはらいまつり)ですよ」


「知ってます。それで来ました」


男は少しだけ表情を和らげた。


「仕込みの日から来るなら、早い。いい時期に来た」


部屋は二階だった。


ドアを開けた瞬間、冷たい空気が顔に当たった。

「うわ、冷たい」

石壁の冷たさだ。

窓を閉めていても、壁そのものが夏の熱を寄せつけない。


木の床。

足を踏み入れると、低い音がした。

古い木が、何年分の重みを知っているような音だ。


ロウソク立てが二つ。

分厚い骨組みのベッドに、羊毛のマットレス。

部屋は狭くないが、天井が低くて、落ち着く。

なんか、いい!


窓が二枚ある。

一枚は市場広場の方向、もう一枚は港の方向に開いていた。


港側の窓を開ける。


「あ——!」


潮の匂いが、もっと強くなった。

肩から力が抜けていくのが、自分でわかった。


眼下に、灰色の屋根が続いている。

下段の家々の石板屋根が、階段状に重なって海に向かって下りていく。

その屋根越しに防波堤の白い石積みが見えて、

もっと向こうに、クラヴォ灯台の塔。


灰色の柱に白い頭。

見晴らし石から見たときより、近い。


西の空がすこし朱みがかってきていた。

日没まで、まだ少しある。


アトラスを呼び出した。

緑色の辞典が宙に浮かんで、窓から差す光を受けてわずかに輝いた。


「最高!」


わたしは呟いた。


「いい部屋!」


「灯台が見えますね」


アトラスが言った。


「日没の十分前に点くそうです。毎日、決まって」


「じゃあ今日、ここから見る」


わたしはサイドケースから着替えを出して、荷物を解いた。


バイクで半日走ってきた体が、少しだけほぐれていく感じがした。

石壁に手のひらを当てると、体温を吸われる。

窓枠に肘をついて、しばらく港を眺めた。


漁船が何艘か、桟橋堤に係留されていた。

甲板で何かをしている人影がある。

今日の漁から戻ってきたところなのかもしれない。


「ねえ、アトラス」


「はい」


ずっと、こういう場所に来たかった。


「この町、来てよかった!」


「——そうですね」


一拍の間があって、アトラスは言った。


「潮の匂いがしますね。少し甘い気がしませんか」


「甘い?」


「干潮が近いと、磯の匂いが出るんだそうです」


言われると、そうかもしれない。

潮の匂いの奥に、何か海藻みたいな、生き物みたいな、かすかな甘みがある気がした。


「面白いことに気づくね、アトラスは」


「いつもリゼットが先に気づきますよ」


「今日は負けた」


窓を少し広く開けて、夕暮れの港を眺め続けた。


灯台がまだ点いていない。

日没まで、もう少し。


今夜の夕飯は、波止場通りの食堂で貝のパスタと決めていた。

やった、とひそかに思った。

まずそれだ。

それから、この町のことを少しずつ知っていけばいい。


旅はいつも、こうして始まる。


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