85
「ちょっと、仕事の話」
そう言うと、湊が手を止める。
フライパンの火を弱めて、まっすぐこっちを見る。
この人、ほんとに顔に出る。
「なんかあったんですか」
「怒られたとかじゃないよ」
「そこ心配してません」
少しだけ笑ってしまう。
ダイニングテーブルに向かい合って座る。
「で?」
呼吸をひとつ。
「主任候補、って言われた」
一瞬、湊が固まる。
「……え」
「来期の体制で、名前挙がってるって」
沈黙。
数秒。
そのあと、勢いよく立ち上がる。
「すごいやないですか!」
びっくりする。
「え、ちょ、声」
「いやだって!主任ってあれですよね、リーダー的な」
「まあ、そんな感じ」
目がきらきらしてる。
まるで自分のことみたい。
その顔を見て、少しだけ胸が軽くなる。
でも。
「責任、重くなるよ」
ぽつりと言うと、湊の顔が少しだけ落ち着く。
「クレーム最終判断とか、新人教育とか、売上管理も」
「……忙しくなりますね」
現実的。
そう、忙しくなる。
今より確実に。
「受けるんですか」
「まだ、考えさせてって言ってある」
湊は少しだけ黙る。
真面目な顔。
「遥花さんは、どうしたいんですか」
その問いが、まっすぐすぎる。
どうしたい。
できるかどうかじゃなくて。
「……やりたい気持ちは、ある」
正直に言う。
「ここまでやってきたし」
少し、声が小さくなる。
「でも」
「でも?」
「もし、もっと忙しくなったら」
言葉を選ぶ。
「今みたいに、ちゃんと隣にいられるかなって」
言った瞬間、少し後悔する。
弱音みたいで。
でも、湊は笑わなかった。
むしろ、少しだけ呆れた顔。
「それ、俺の心配ですか」
「え」
「俺、そんな頼りないです?」
「そういう意味じゃ」
「俺、2年目ですけど」
少しだけ背筋を伸ばす。
「一応、社会人です」
その言い方が少し可愛い。
でも、目は真剣。
「忙しくなっても」
一歩、近づく。
「隣に立つのはやめませんよ」
胸が、きゅっとなる。
「むしろ」
少し照れくさそうに笑う。
「主任の彼氏とか、ちょっとかっこよくないです?」
台無し。
思わず吹き出す。
「なにそれ」
「自慢します」
「誰に」
「悠に」
さっきまで重かった空気が、少しだけ軽くなる。
湊が静かに続ける。
「受けたいなら、受けたほうがいいです」
「……でも」
「俺のこと理由にせんといてください」
優しいのに、強い。
その言葉に、はっとする。
私は無意識に、“バランス”を取ろうとしてた。
でも。
歩幅は合わせられる。
立ち止まってもいい。
あの時、そう言ったのは私だ。
湊が、そっと手を握る。
「俺、隣で頑張ってる遥花さん、好きなんで」
ずるい。
「だから」
少し照れながら。
「主任、似合うと思います」
胸の奥が、じわっと温かい。
「……受けようかな」
ぽつり。
湊がにやっと笑う。
「決まりですね」
「まだ正式じゃないし」
「いや、もう顔が決めてます」
そう言って、指を絡める。
「忙しくなったら」
少しだけ低い声。
「その分、甘やかします」
「どっちが」
「俺が」
自信満々。
その強がりが、今は嬉しい。
春は変化の季節。
でも。
隣は、変わらない。




