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「高瀬さん、少しいいですか」
振り返ると、マネージャーが立っていた。
相変わらず淡々としている。
「はい」
会議室に通される。
ドアが閉まる音が、少しだけ重い。
怒られる空気ではない。
マネージャーは資料を机に置いたまま、こちらを見る。
「来期の体制について話があります」
来期。
その言葉に、胸がほんの少しだけ跳ねる。
「主任候補として名前が挙がっています」
一瞬、言葉が理解できない。
「……私が、ですか」
「ええ。現場対応力と判断力は十分です」
事務的な口調。
でも、評価ははっきりしている。
「ただし」
その一言で、背筋が伸びる。
「責任は今より重くなります。
クレームの最終判断、新人教育
売上管理にも関わることになります」
今まで“任される側”だった。
これからは“背負う側”。
「受けますか?」
静かな問い。
断る余地はある。
強制ではない。
でも。
「……少し、考えてもいいですか」
マネージャーは小さく頷く。
「急ぎません。
ただ、あなたならできると思っています」
その言葉が、一番重い。
会議室を出たあと、フロントに戻る。
いつもと同じロビー。
同じ制服。
でも、景色が少しだけ違って見える。
できる。
たぶん。
でも。
湊の顔が浮かぶ。
まだ2年目。
必死に食らいついている最中。
もし、私が忙しくなったら。
すれ違う時間が増えたら。
“支える側”でいられる?
いや。
立場が変わっても、隣には立てる。
はず。
でも、少しだけ怖い。
その日の帰り道、足取りが重い。
家のドアを開けると、キッチンからいい匂いがする。
「おかえりなさい」
振り返った湊が、少しだけ得意げに笑う。
「今日は俺が作りました」
その笑顔を見た瞬間。
胸の奥が、きゅっとなる。
嬉しいのに。
安心するのに。
同時に、少しだけ遠くなる未来が見える気がして。
「……どうしたんですか」
湊が気づく。
相変わらず、早い。
私は、少しだけ笑う。
「ちょっと、仕事の話」
春は、変化の季節。
たぶん、ここから。




