56
湊が削られているのは、わかっている。
最近、少しだけ素直になった。
弱いところも見せてくれるようになった。
嬉しい。
だからこそ。
私は、ちゃんとしていなきゃ。
日曜の午後。
湊は資料整理があるとかで出かけている。
玄関のチャイムが鳴り
ドアを開ける。
「よ。」
悠。
手にコンビニ袋。
「なんでいきなり。」
「近く通ったから。」
嘘。
近く通らなくても来るくせに。
ソファに座る。
悠はいつも通り。
「最近どうよ。」
「どうって?」
「社会人5年目。」
からかい半分。
遥花は肩をすくめる。
「普通。」
その言い方に、悠の目が細くなる。
一瞬。
本当に一瞬。
でも、逃さない。
「湊は?」
「頑張ってる。」
「そっちじゃない。」
沈黙。
遥花は視線を逸らす。
コップの水を飲む。
悠は続けない。
この人は、こういう時、黙る。
沈黙に耐えられなくなるのを知ってる。
「……ちょっと忙しいだけ。」
やっと出た言葉。
悠はため息をつく。
「無理すんなよ。」
「してない。」
「してるだろ。」
遥花は笑おうとする。
うまく笑えない。
「お前が今倒れたら、あいつどうすんだよ。」
心臓が、止まるみたいに一瞬静かになる。
「別に倒れないし。」
「倒れるって物理の話じゃない。」
「お前が“何もない顔”してる方がきつい。」
遥花の喉が鳴る。
「湊はさ。」
悠は続ける。
「気づくぞ。」
短い断言。
「気づいて、何も言えなくなるタイプだ。」
ああ。
わかる。
わかるから、怖い。
「お前が挫けたら、あいつ自分のせいだと思う。」
胸が、締まる。
「ちゃんと弱ってること言え。」
静かに。
でも、逃がさない声。
「じゃないと、気づいた時に湊が傷つく。」
遥花は目を伏せる。
指が、無意識にぎゅっと絡む。
「……大人だから。」
やっと出た本音。
「私がちゃんとしてなきゃ。」
悠は笑わない。
否定もしない。
ただ、少しだけ優しくなる。
「誰が決めた。」
「湊、もう子どもじゃないぞ。」
遥花は息を吐く。
「でも。」
「でも、じゃない。」
「お前ら、横に立つって決めたんだろ。」
「上とか下とか、今さらやめろ。」
言葉が、深く刺さる。
遥花は目を閉じる。
たしかに。
私が守る側、なんて誰も決めていない。
「……怖いんだよ。」
ぽつり。
やっと零れた。
「弱いって言ったら、重くなる気がして。」
「お前、めんどくさ。」
いつもの言い方。
少し救われる。
「湊、重いの嫌いか?」
「……嫌いじゃない。」
「だろ。」
「泣いてもいいから。」
遥花は、ゆっくり頷く。
悠はドアに向かう。
「ありがと。」
背中に言う。
「礼はいらん。」
振り返らず。
「俺はあいつが潰れるのも、お前が潰れるのも嫌なだけ。」
ドアが閉まる。
遥花はソファに沈み込む。
胸の奥が、じんわりと熱い。
言え。
泣け。
簡単に言わないでよ。
そんなの。
できたらとっくにやってる。
玄関の鍵が回る音。
「ただいまです。」
いつも通りの声。
私は深呼吸して立ち上がる。
「おかえり。」
リビングに入ってきた湊は、少しだけ明るい。
「今日、任されました。」
「何を?」
「小さい案件ですけど。」
少しだけ、誇らしそう。
胸がきゅっとする。
よかったね。
本当に。
「一人で?」
「一応、最終確認は入りますけど。」
その言い方が、もう“新人”だけじゃない。
私は笑う。
ちゃんと、笑える。
今度は遅れない。
「すごいじゃん。」
湊は照れたように笑う。
「いや、まだ全然です。」
でも目が違う。
削られて、立て直して、
少しずつ自分の足で立ち始めてる目。
ああ。
私はこの顔が好きなんだ。
その瞬間、少しだけ思う。
言わなくていいかも。
今は。
今はこの上向きの流れを止めたくない。
湊がキッチンに入ってくる。
「今日、悠来ました?」
一瞬、止まる。
「来たよ。」
「何しに。」
「差し入れ。」
嘘じゃない。
でも、本質は違う。
湊はそれ以上聞かない。
冷蔵庫を開けながら言う。
「俺、最近ちょっと楽しいです。」
遥花は目を上げる。
「仕事?」
「はい。
怖いですけど…」
「でも、わからんもんが少しずつ減っていくの、面白いです。」
その言葉に、胸が締まる。
私は、どうだろう。
わからないものが減っていく日々じゃない。
むしろ、増えてる気がする。
責任も、期待も。
「遥花さん?」
「ん?」
「今日、静かです。」
ドキッとする。
でも。
まだ。
まだ言えない。
「ちょっと疲れてるだけ。」
柔らかく言う。
今度は早すぎない。
湊は一瞬だけ見つめる。
そして。
「そっか。」
それ以上追わない。
優しい。
優しすぎる。
だからこそ、言えない。
湊は少し前より寝つきが良くなった。
私は天井を見る。
悠の言葉が蘇る。
“ちゃんと弱ってること言え。”
でも。
今は、言わない。
もう少しだけ。
湊が立てるようになるまで。
もう少しだけ。




