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配属されて二週間。
「これ、もう一回やり直し。」
資料が机に戻ってくる。
声は冷たい訳じゃない。
でも、淡々としている。
「数字は合ってる。でも、意味が弱い。」
意味。
研修では出てこなかった言葉。
「すみません。」
謝る癖がついている。
席に着くとモニターの光がやけに白い。
何が足りない。
どこが甘い。
正解がない。
だから怖い。
周りは普通に仕事を回している。
電話を取り、
即答し、
資料を直し、
笑っている。
どうやったら、あのスピードに追いつく。
昼休憩。
食欲がない。
でも食べないと午後がもたない。
コンビニのサンドイッチを口に入れる。
味がしない。
焦りが出る。
焦ると視野が狭くなる。
見落とす。確認不足。
小さなミス。
「これ、昨日も言ったよな。」
怒鳴られない。
でも、その一言が刺さる。
昨日も言った。
つまり、学習してない。
胸の奥がきゅっと縮む。
帰り道。
空はもう暗い。
スマホが震える。
“今日は遅い?”
既読をつける。
返せない。
“ちょっと遅くなります。”
それだけ送る。
弱い自分を、見せたくない。
玄関の鍵を回す。
「おかえり。」
キッチンから、いつもの声。
湊は靴を脱ぎながら一瞬だけ目を閉じる。
大丈夫。
顔、作れ。
「ただいまです。」
声が少し低い。
遥花は何も言わない。
テーブルにご飯が並んでいる。
「疲れた?」
聞き方がやわらかい。
責めてない。
ただの確認。
「まぁ、ちょっと。」
ちょっと。
本当は、けっこう。
でも、それは言わない。
遥花はそれ以上踏み込まない。
ただ、味噌汁をよそう。
「今日ね、後輩がまたクレーム対応で泣きそうになってて。」
自分の話をする。
湊の逃げ道を作るみたいに。
「最初はそんなもんだよって言ったら、ちょっと笑ってた。」
湊は箸を止める。
“最初はそんなもん”。
あの日、自分に言ってくれた言葉。
遥花はこっちを見ない。
見ないまま、続ける。
「できない時期って、ちゃんとあるからね。」
湊は唇を噛む。
言いたい。
でも。
「俺、今日ミスしました。」
ぽつり。
思ってたより、声は静かだった。
遥花はすぐ反応しない。
間を置いて。
「うん。」
それだけ。
否定も、慰めもない。
「昨日注意されたところ、またやって。」
湊は目を落とす。
「……俺、思ったよりできないかもしれません。」
その言葉が、自分で一番きつい。
遥花はようやく顔を上げる。
怒ってない。
がっかりもしてない。
ただ、まっすぐ。
「最初から完璧だなんて思ってないよ。」
少し笑う。
「湊、優等生やろうとするからさ。」
図星。
痛い。
「でもさ。」
箸を置く。
「できない自分が嫌なんじゃなくて、“できないまま止まる自分”が嫌なんでしょ?」
湊は何も言えない。
その通りだから。
「今日、ミスした。」
「うん。」
「でも帰ってきた。」
「明日も行く。」
湊は小さく息を吐く。
「……はい。」
遥花はそれ以上言わない。
立ち上がって、湊の頭をぽんと叩く。
子ども扱いじゃない。
ただの確認。
「大丈夫。」
湊は思う。
研修とは全然違う。
ここからが、本当のスタートだ。
削られる。
迷う。
でも。
逃げない。
「かっこ悪いですね。」
「うん。」
少しだけ笑う。
「でも、かっこ悪いとこもちゃんと好きになりたい。」
その言葉に、胸が静かにほどける。
全部含めて湊。
あの日言われた言葉が、今になって効いてくる。
湊は箸を持ち直す。
まだ、弱い。
でも。
少しだけ、正直になれた。




