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研修は、思っていたより整っていた。
スケジュールは明確。
講師は丁寧。
失敗しても、怒鳴られない。
資料をまとめるのも、
グループワークで発言するのも、
そこそこできた。
“優等生”は、まだ通用する。
正解がある世界。
評価基準がわかる世界。
帰り道、少し疲れてはいるけれど、
「無理です」と言うほどじゃない。
「どうだった?」
遥花がキッチンから顔を出す。
「まぁ、想定内です。」
少しだけ誇らしい気持ちもある。
「発表もしましたし。」
「へぇ、さすが。」
その“さすが”が嬉しい。
まだ、余裕がある。
夜、ベッドで目を閉じながら思う。
これなら、やっていけるかもしれない。
5月 になると辞令が出た。
研修室の空気が一瞬変わる。
配属先の名前を聞いた瞬間、
胸の奥がひやりとした。
現場。
数字が動く部署。
言い訳のきかない場所。
初日。
空気が違う。
速い。
無駄がない。
会話が短い。
「新人?」
上司に見られる。
値踏みされる視線。
「はい。」
「じゃあこれ、今日中にまとめて。」
渡された資料は、分厚い。
研修では見たことのない形式。
やり方も、正解も、教科書もない。
周りはキーボードを叩き続けている。
誰も止まらない。
誰も待たない。
湊は画面を見つめる。
さっきまでの“できる自分”が、急に小さくなる。
これ、どうやる。
誰に聞く。
どこから。
呼吸が浅くなる。
それでも、聞く。
教えてもらう。
メモを取る。
必死に食らいつく。
一度提出した資料が返ってくる。
赤い修正。
「甘い。」
一言。
否定じゃない。
でも、容赦もない。
心が少し削られる。
夜、駅に向かう足取りが重い。
研修とは違う。
ここからが本番。
甘くない。
「……はぁ。」
初めて、小さく息が漏れる。
スマホを見る。
遥花からのメッセージ。
“今日は遅い?”
返そうとして、指が止まる。
弱音を吐きたい。
でも。
まだ、吐きたくない。
家に着く。
玄関を開ける。
「おかえり。」
いつもの声。
湊は一瞬だけ迷ってから、笑う。
「ただいまです。」
大丈夫。
まだ、立てる。
でも。
“想定内”じゃない。
こっからだ。




