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4月、最初の朝

アラームが鳴る三分前に目が覚めた。


まだ外は白み始めたばかりで、部屋の中は青い。


隣で眠る遥花の呼吸は規則正しい。


昨日は何度も目が覚めた。


緊張なのか、期待なのか

自分でもよくわからない感情が

胸の奥でずっと小さくざわついていた。


社会人になる。

言葉にすれば簡単だ。


でもその言葉の中には

責任も、評価も、数字も、期待も

全部含まれている。


もう「学生だから」で守られない。


ベッドからそっと起き上がる。


遥花を起こさないようにと思ったのに、布団が少し動く。


「……湊?」


目をこすりながら、遥花が起きる。


「ごめん、起こしました?」


「ううん。今日、だよね。」


その一言で、現実がはっきりする。


「はい。」


喉が少し乾いている。

洗面所で顔を洗う。

鏡に映る自分は、いつもと変わらない。


でも、今日からは“新人”だ。


スーツを着る。

何度も着たはずなのにまだ馴染まない。


ネクタイを結ぶ指が、ほんの少し震える。


「貸して。」


後ろから、遥花の手が伸びる。


自然に、距離が近い。

彼女は慣れた手つきで結び目を整える。


その仕草が、妙に大人に見える。


五年目。


新人だった時間も、もう遠い。


「怖い?」


唐突に聞かれて、湊は一瞬言葉を失う。

強がろうとした。


でも、やめた。


「……ちょっと。」


遥花は笑わない。

からかいもしない。


ただ、頷くだけ。


「最初はみんな怖いよ。」


「遥花さんも?」


「もちろん。」


少しだけ、遠くを見る目。


「何もわからなくて、怒られて、帰り道で泣いたこともある。」


湊は驚いて彼女を見る。

そんな話、聞いたことがなかった。


「でもね。」


視線が戻る。

まっすぐ。


「できないのは普通なの。できるふりする方がしんどいよ。」


その言葉が、胸に落ちる。


優しい励ましじゃない。

経験から出た、本音。


「湊はさ。」


ネクタイの結び目を軽く叩く。


「ちゃんと悩むから大丈夫。」


それは、信頼だ。

期待ではなく、信頼。


「……ありがとうございます。」


「なにそれ、他人行儀。」


少しだけ、肩の力が抜ける。


玄関に向かう。

革靴を履く音がやけに響く。


ドアを開ける前、振り返る。

遥花はいつもの部屋着のまま、壁にもたれて立っている。


「いってきます。」


「いってらっしゃい。」


たったそれだけ。


なのに。


背中を押された気がした。





外は春の匂いがする。

同じようなスーツ姿が駅に向かって歩いている。

自分もその中の一人。


もう大学生じゃない。


ふと、思う。


昨日までの時間は、確実に終わったんだ、と。


ポケットの中でスマホが震える。


“今日、終わったらちゃんと話聞くからね。”


短いメッセージ。

“ちゃんと”という言葉に、少しだけ笑う。


「かっこ悪くても、ええんやろ。」


小さく呟く。

優等生じゃなくていい。

完璧じゃなくていい。


でも。

かっこ悪いままで終わる気はない。


改札を抜ける。


一歩踏み出す。


心臓は速い。


でも、逃げない。


社会人一年目。


湊の、新しい時間が始まる。




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