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お泊まりの朝から四日。
何も壊れていない。
何も変わっていない。
でも、少しだけ世界の見え方が違う。
仕事中笑顔を作りながら、遥花はふと思う。
あの朝、隣にいた体温。
寝癖のままの顔。
「ちゃんと隣にいますね。」
あの言葉。
思い出すたび、胸の奥が柔らかくなる。
でも。
湊は忙しい。
面接、説明会、ゼミ、バイト。
社会に出るための準備で、時間は削られていく。
メッセージは来る。
でも短い。
『今日は一次面接でした。』
『帰り遅くなります。』
『眠いです。』
淡々としているのに、必死さが滲む。
控室でお弁当を開きながらスマホを見る。
既読はついている。
でも返信はない。
数分。
十数分。
画面を伏せる。
「……忙しいだけ。」
自分に言い聞かせる。
分かっている。
分かっているのに。
少しだけ、物足りない。
通知が来て慌ててスマホを確認する。
『夜、電話していいですか。』
心臓が跳ねる。
『待ってる。』
短い会話。
それだけで、一日が少し軽くなる。
シャワーを浴びて、髪を乾かす。
リビングは静か。
前は、土曜じゃなくても来ていた。
今は、週に一回会えればいい方。
時計を見る。
23:41。
遅い。
暫くスマホと睨めっこしていると着信。
「もしもし。」
「起きてました?」
低い声。
疲れている。
でも嬉しそう。
「待ってた。」
一瞬の沈黙。
それから、少し笑う気配。
「それ、ずるいです。」
「何が。」
「嬉しいんで。」
声が柔らかい。
面接の話をする。
緊張したこと。
隣の人が優秀そうだったこと。
スーツが暑かったこと。
小さなことまで話す。
遥花は黙って聞く。
学生の時間。
社会人の時間。
流れる速さが違う。
湊は今、未来に向かって走っている。
自分はもう、そこに立っている。
距離が開いているわけじゃない。
でも、速度が違う。
「会いたいです。」
唐突な言葉に息が止まる。
「今?」
「今。」
子どもみたいな即答。
「無理でしょ。」
「知ってます。」
「忙しいと、余計会いたくなります。」
その言葉が、胸に落ちる。
遥花は少し考えて。
「私も。」
自然に出る。
「でも。」
湊が続ける。
「焦らないでください。」
「何を?」
「会う回数、減ったわけじゃないです。」
「今、準備してるだけです。」
“準備”。
社会に出る準備。
未来の準備。
自分たちの時間の準備。
「俺、離れません。」
「だから。」
「今はちょっとだけ、我慢してください。」
その言い方が、優しい。
命令じゃない。
お願いでもない。
共有。
遥花はゆっくり息を吐く。
「私、焦ってる?」
「ちょっと。」
湊が笑う。
あの夜。
あの目。
「……信じていい?」
少しだけ弱い声。
「信じてください。」
迷いのない湊の声。
その声を聞いた瞬間。
焦りが少し溶ける。
通話が終わる。
部屋は静か。
でも、寂しくない。
ソファに座る。
スマホが震える。
『明日も頑張れます。』
短いメッセージ。
遥花は少しだけ考える。
『私も、ちゃんと待てるようになります。』
送信。
既読。
すぐ返信。
『待たせるつもりないですけどね。』
強気。
『重い。』
『知ってます。』
画面を閉じる。
静かな部屋。
前より会えない。
でも前より、深い。
会えない時間が、不安を増やすんじゃなくて、
覚悟を増やしている。
遥花は天井を見上げる。
忙しい彼を好きになった。
それも、選んだ。
次に会う土曜まで、あと三日。
数えられる距離なら、大丈夫。




