17
マグカップの底がみえる。
指先に残るぬくもりが、まだ消えない。
ふと、自分の匂いに気づく。
汗と、外気と、恐怖の残り香。
「……シャワー、浴びてくる。」
立ち上がると、湊が顔を上げる。
「はい。」
それだけ。
余計な言葉はない。
視線も追ってこない。
浴室のドアを閉める。
鍵の音がやけに響く。
シャワーをひねる。
水音が、世界を切り離す。
肩に当たる湯が、さっきの震えを思い出させる。
家の前で、声をかけられた瞬間。
逃げ場のない距離。
そして。
温もり。
迷いなく回された腕。
「外側で終わらせへん。」
湯気の中で、言葉が反芻される。
鏡に映る自分。
目が赤い。
泣きすぎた顔。
大人のくせに、と思う。
でも同時に、少しだけ軽い。
崩れても、消えなかった。
湯を止める。深呼吸。
タオルで髪を拭きながら、ふと思う。
リビングに湊がいる。
それが、まだ少し不思議だ。
「遅くなりました。」
「いえ。」
視線が合う。
一瞬、逸らす。
心臓がまた少しだけ速い。
「……湊もシャワー浴びる?」
自分で言ってから、少しだけ驚く。
自然に出た。
「いいんですか。」
少し目が丸くなる。
「着替え、悠のでよければ。」
言ったあとで、くすっと笑う。
悠の部屋着はサイズがちょうどいい。
湊が一瞬迷ってから、うなずく。
「借ります。」
浴室のドアが閉まる。
今度は私がリビングに一人。
でも、さっきの一人とは違う。
水音が向こうから聞こえる。
生活の音。
安心の音。
数分後、ドアが開く。
「ありがとうございます。」
律儀に頭を下げる。
その姿が、妙に可笑しい。
「袖、ちょっと短かったね。」
思わず言うと、湊が少しだけ照れる。
ドライヤーを手に取ると湊が立ち上がる。
「貸してください。」
「え?」
「やります。」
当然みたいな顔。
一瞬、迷う。
近い。
でも。
さっき抱きしめられた距離より、軽い。
椅子に座る。
背後に立つ気配。
温風が当たる。
指先が、髪をすくう。
優しい。
必要以上に触れない。
でも、丁寧。
耳の近くで、低い声。
「まだ少し震えてます。」
気づいてる。
「……ばれた?」
「はい。」
少しだけ笑う気配。
温風が止まる。
指先が、最後に軽く整える。
「乾きました。」
振り向く。
距離が近い。
でも、触れない。
触れないから、余計に意識する。
「……ありがとう。」
言うと、湊がうなずく。
その顔が、少し大人に見える。
電気を消す前、
「間に合って、よかった。」
湊の小さい呟き。
灯りが消える。
同じ空間に、呼吸が二つ。
怖さはまだある。
でも。
今夜は。
一人じゃない。




