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朝から、気持ち悪い。


空腹でもだめ。


食べてもだめ。


匂いもだめ。


冷蔵庫を開けた瞬間、込み上げてきて慌てて閉めた。


「……ごめん」


キッチンに立っていた湊がすぐ振り返る。


「無理せんでください」


もう何回目だろう、その言葉。


出勤前、玄関で。


「今日も送ります」


「いらないよ」


「いります」


結局、駅まで付き添われる。


過保護は悪化している。


でも今日は、それを少しありがたいと思った。


仕事。


フロントに立つ。


笑顔。


でも視界が揺れる。


香水の匂い。


ロビーのコーヒーの匂い。


全部、強い。


「遥花、大丈夫?」


先輩が小声で聞く。


「うん」


嘘。


でも倒れるわけにはいかない。


昼休憩、トイレに駆け込む。


吐くほどじゃない。


でも、ずっと気持ち悪い。


鏡の中の自分は、明らかに顔色が悪い。


「……無理、かも」


スマホを取り出す。


湊に連絡しようか迷う。


でも、仕事中だ。


代わりに、内線を取る。


「マネージャー、お時間少しよろしいですか」


静かな声。


いつも通り。


でも、少しだけ震えているのが自分でも分かる。


バックオフィス。


ドアを閉める。


マネージャーは、穏やかな顔でこちらを見る。


「どうしましたか、橘さん」


その声で、少し安心する。


深呼吸。


「実は……」


言葉が、重い。


でも、ちゃんと伝えなきゃ。


「妊娠が分かりました」


一瞬の沈黙。


それから、柔らかい微笑み。


「それは、おめでとうございます」


涙が出そうになる。


まだ初期です。


心拍は確認できましたが、安定期ではありません。


つわりが少し出始めていて。


言葉が途切れ途切れになる。


マネージャーは、最後まで遮らずに聞いてくれた。


「体調が第一です」


静かに言う。


「シフトは調整します」


「でも、」


「無理をして倒れる方が困ります」


その言い方は、叱責じゃない。


守る言葉。


「ありがとうございます……」


堪えていた涙が、ぽろっと落ちる。


ああ、ほんとに情緒が弱い。


「ご家族には?」


「主人とだけ、まだ二人だけの秘密で」


マネージャーは、ふっと微笑む。


「素敵ですね」


胸が、じんわり温かくなる。


「ただし」


少しだけ声が締まる。


「無理はしないこと。約束ですよ」


「はい」


素直に頷く。


職場を出るとき、少し足取りが軽い。


全部一人で抱えなくていい。


そう思えた。


家に帰ると、湊が玄関まで出てくる。


「顔色、悪いです」


「ばれてる?」


「はい」


正直すぎる。


靴を脱ぎながら、少しだけ笑う。


「今日、マネージャーには報告した」


湊の目が、わずかに見開く。


「……一人で?」


「うん」


「なんで呼ばないんですか」


ちょっと不満そう。


「仕事だもん」


でも。


「ちゃんと守ってくれたよ」


その言葉で、湊の肩が少し下がる。


安心した顔。


「よかった」


その一言が、重い。


守る人がいる。


職場にも。


家にも。


ソファに座る。


ふわっと、湊が隣に座る。


「しんどいですか」


「うん、ちょっと」


もう強がらない。


湊の手が、そっと背中に回る。


「無理せんといてください」


今日何回目か分からない。


でも、その度に少し救われる。


お腹に手を当てる。


まだ小さい。


でも確かに、存在感は増している。


「一緒にがんばろうね」


小さく呟く。


湊は、迷いなく答えた。


「はい」


静かな夜。


秘密は、少しだけ広がった。


でも。


守られている実感も、確かに広がっていた。




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