14
最初は、軽いナンパだった。
「飲みに行こうよ。」
フロントに立っていると
受け流すことに嫌でも慣れる。
でも次は違った。
クレーム。
わざとらしい言いがかり。
「この前の対応さ、どうなってんの?」
距離が近い。視線が粘つく。
マネージャーが自然と隣へ立つ。
「申し訳ございません。こちらで詳しく伺ってもよろしいでしょうか?」
声は柔らかい。強くない。
ホテルの顔としての声。
客の表情がわずかに変わる。
それでもマネージャーは崩さない。
謝罪も、説明も、丁寧に。
サービス業の矜持。
守られた、というより。
守る立場の人がいるという安心。
退勤し外に出るとその客が立っていた。
偶然を装う距離。視線が合う。
一瞬、息が浅くなる。
偶然居合わせたマネージャーに声をかけられ
その日は家まで送ってもらった。
強がる気力もなかった。
並んで歩く距離は近すぎない。
でも安心する。
主任は仕事の話しかしない。
今日の対応の振り返り。
防犯の確認。
私的な話は一切ない。
「無理するなよ。」
それだけ。
「ここまでで大丈夫です。」
「何かあったらすぐ連絡。」
去る背中は、頼もしい。
安心と、申し訳なさが同時に残る。
それが数回続いた。
守られる夜。
何も起きない夜。
でも、心は削れていく。
物音に敏感になる。
足音に反応する。
その日。
マネージャーは出張で不在だった。
フロントはいつも通り回っていたし、
例の客も今日は姿を見せなかった。
「今日は大丈夫そうだね」
先輩が言う。
私も笑って頷いた。
大丈夫。
今までも何もなかった。
“何もなかった”は、正確じゃないけど。
問題にはなっていない。
それで十分だと思い込む。
退勤後、夜の空気は少し冷たい。
駅からの道はいつもと同じ。
人通りもある。
足音も普通。
振り返らない。
振り返らないようにしている。
曲がり角を曲がる。
見慣れた街灯。
コンビニの光。
家が視界に入る。
ほっとする。
肩が少しだけ下がる。
大丈夫。
ほら、何もない。
鍵を取り出そうとバッグに手を入れた、そのとき。
「やっと会えた。」
すぐ近くで声がした。
心臓が跳ねる。
うまく息が吸えない。
振り返ると、あの客だった。
笑っている。
仕事中よりも近い。
逃げ場のない距離。
「ホテルじゃ話せないからさ。」
足が動かない。
オートロックの扉までたった数メートル。
でも、遠い。
「仕事終わりなんでしょ?」
一歩近づかれる。
反射的に後ずさる。
「やめてください。」
声が、思ったより小さい。
「そんな警戒しなくても。」
腕が伸びる。
全身が固まる。
怖い。
大声を出せばいい。
分かっている。
でも喉が閉じる。
そのとき。
「何してるんですか。」
低い声。
空気が変わる。
湊が私の前に立つ。
「知り合いですか?」
「あ、ぇと…お、お客様…」
「何か用ですか。」
声は荒くない。
でも、明確に壁。
「いや、話が。」
「業務の話なら仕事中にどうぞ。」
言葉が鋭い。
私が初めて見る顔。
「もう話すことないですよね。」
客は舌打ちをして、視線を外す。
「めんどくさいな。」
去っていく背中。
完全に消えるまで、湊は動かない。
静寂。
足の力が抜ける。
家は目の前なのに、
さっきまであんなに遠かった。
「……大丈夫ですか?」
振り向く。
私は、うなずこうとする。
でも、うまくいかない。
指が震えている。
情けない。
あと少しで家だったのに。
大丈夫だったはずなのに。
安心しかけたところを、奪われた。
「とりあえず家入りましょ。」
オートロックを抜け、エレベーターの中。
湊は何も言わない。
自分の鼓動だけがうるさい。
家のドアが閉まった瞬間。
やっと息が出る。
膝が震える。
強くない。
全然、強くない。
その現実だけが、残る。




