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玄関の鍵が回る音で跳ねる心臓。
「……おかえり」
湊は視線を向けない。
無言。
その無言が、重い。
「湊、あの、昨日……」
横を通り過ぎる。
無視。
胸が、ぎゅっと縮む。
「……っ、ごめんなさい……っ」
声が震える。
止められない。
「約束したのに、私……」
湊が足を止める。
背中のまま。
静かに、ため息。
それだけで、心臓が潰れそうになる。
呆れられた。
失望された。
その想像が、一気に押し寄せる。
「ちゃんと分かってなかった……ごめん、ほんとに……」
涙が落ちる。
視界が滲む。
湊が、ゆっくり振り返る。
目が、違う。
一歩、近づく。
無意識に一歩下がる。
背中が壁に当たる。
「……逃げてみてくださいよ」
低い。
抑えた声。
一瞬、意味が分からなかった。
次の瞬間、手首を掴まれる。
強い。
痛いほどじゃない。
でも、逃げられない。
壁に押し付けられる。
距離が近い。
呼吸が、かかる。
「出来るでしょ?」
理性が少し外れている。
「んっ……みなと、ごめん……っ」
反射的に謝る。
湊の眉がわずかに寄る。
「謝れなんて言うてへん」
「逃げられんのかって聞いてんねん」
息が詰まる。
意味を、遅れて理解する。
「俺がいなかったら」
視線が絡む。
逃げ場はない。
「昨日みたいに、電車止まって、俺が迎えに行けなくて」
指に力がこもる。
「本気で逃げられるんですか?」
涙がこぼれる。
怖いのは怒りじゃない。
湊が、本気で怯えていること。
「俺が怖いって言った意味、分かってます?」
声が、震えている。
怒りじゃない。
恐怖。
守れないかもしれない恐怖。
「……分かっ、てなかった…っ」
答えに嗚咽が混じる。
「私、大丈夫だって、思ってた…っ」
「それが油断や言うてんねん」
関西弁が強くなる。
目が、赤い。
「大丈夫なわけないやろ」
掴んでいた手首から、ゆっくり力が抜ける。
でも距離は近いまま。
「俺、昨日ずっと考えてた」
視線が揺れる。
「何かあったら、どうするんやって」
初めて、本音が剥き出しになる。
「守られへんかったら、どうするんやって」
その言葉に、胸が締めつけられる。
「……ごめん」
今度は、小さく。
「怖がらせてごめん」
湊の額が、こつんと肩に触れる。
「俺が怖いのは、事故ちゃう」
「遥花さんが、“大丈夫”って言うことや」
涙が止まらない。
「もう言わない……」
「言うなとは言うてない」
息が近い。
「ちゃんと怖がれや……頼むから」
震える声。
それが一番、刺さる。
やがて、湊が額を離す。
手首から完全に手を離す。
今度は、抱き寄せる。
強く。
「何もなくてよかった…」
かすれた声。
それが、すべてだった。




