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自販機前で缶コーヒーを開けた時だった。
「橘さん」
振り向くと、柊。
距離が、近い。
「奥さん、白が似合いますよね」
何気ない声色。
雑談みたいなトーン。
でも。
湊の手が止まる。
「……は?」
一拍遅れて出た声は、低い。
柊は肩をすくめる。
「駅でお見かけした、白いジャケット」
にこりと笑う。
「清楚でいいですよね」
その瞬間。
頭の中で、映像が再生される。
一緒に駅に向かった日。
確かに、白いジャケットだった。
いや、今日も。
今朝、出ていく背中を見送った。
白。
……偶然か?
湊は表情を動かさない。
「偶然ですね」
わざわざ言う。
“偶然”。
その言葉の置き方が、気持ち悪い。
「橘さん、過保護そうですもんね」
「心配しなくても、何もしてませんよ」
何もしてない。
でも、見ている。
どこで。
どれくらい。
何回。
湊はゆっくり缶を口に運ぶ。
喉を通る苦味がやけに重い。
「俺、疑ってませんよ」
柊が目を細める。
「何をです?」
「全部です」
一瞬、空気が変わる。
でも柊は崩れない。
「いいですね。信頼って」
視線を逸らさない。
「だから、境界線は守ってください」
穏やかな声。
でも明確。
柊は一秒だけ黙る。
そして、笑った。
「怖いなあ」
「奥さんのこと、ほんとに大事なんですね」
「当たり前です」
柊はそれ以上踏み込まない。
「じゃあ、また」
軽い足取りで去っていく。
湊はその背中を見ない。
見たら、感情が動く。
缶を握る指先が、少し白くなる。
白いジャケット。
偶然かもしれない。
でも。
朝の時間。
上下線のホーム。
あれも偶然だったのか?
スマホを取り出す。
メッセージ画面を開く。
打ちかけて、止まる。
《今日、駅で誰かに会いましたか》
いや。
違う。
疑う形になる。
消す。
代わりに打つ。
《今日のジャケット、似合ってました》
数秒。
既読。
《え、急にどうしたの?笑》
普通の返事。
何も知らない。
何も起きていない。
……はずだ。
湊はゆっくり息を吐く。
疑わない。
でも。
気持ち悪い。
偶然が重なりすぎると、
それは偶然じゃなくなる。
線は、もう引いた。
次に踏み越えたら。
その時は。
静かに、決めていた。




