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改札を抜け、階段を上がると
上下線に分かれる踊り場。
遥花は右へ。
その瞬間、左側から降りてくる人影。
「あれ、橘さん?」
柊だった。
一瞬だけ、足が止まる。
「……あ、柊さん」
ここで会うとは思っていなかった。
柊はネクタイを整えながら笑う。
「偶然ですね」
「ほんとですね」
「こっち方面なんですね」
遥花が言うと、
「ええ、自宅があちらで」
と、遥花が向かう側を軽く指す。
胸の奥が、少しだけ引っかかる。
「そうなんですね」
柔らかく返す。
仕事の人。
失礼はできない。
「橘さんは逆ですね」
「はい、職場が」
「毎朝この時間ですか?」
自然な聞き方。
でも、答えるか迷う。
「だいたい」
曖昧にする。
柊はふっと笑う。
「じゃあ、また会うかもしれませんね」
その言い方。
“偶然”を前提にしていない響き。
「……そうですね」
視線を逸らす。
ホームに電車が入ってくる音がする。
助かった、と思う。
「では」
柊は動かない。
ほんの一瞬だけ、じっと見られる。
値踏みじゃない。
でも、観察されている感じ。
「奥さんって、思ってたより」
言いかけて、やめる。
「いえ、なんでも」
にこりと笑う。
「お仕事、頑張ってください」
「ありがとうございます」
背中に視線を感じる。
振り返らない。
電車に乗り込んで、ようやく息を吐く。
何かされたわけじゃない。
触れられてもいない。
でも。
“偶然ですね”の言い方が
妙だった。
同じ時間。
同じ場所。
次も、偶然?
スマホが震える。
湊からだ。
《着いたら連絡ください》
胸が少しだけ緩む。
返信を打ちながら思う。
……言うべき?
でも。
ただの偶然。
仕事の人。
考えすぎかもしれない。
電車は動き出す。
窓に映る自分の顔は、
ほんの少しだけ、警戒していた。




