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玄関で靴を履いていると、背後から声がした。
「湊」
振り向くと、
遥花がジャケットを羽織りながら立っている。
「今日、一緒に駅行こ」
一瞬、手が止まる。
「……珍しいですね」
「たまにはね」
何も知らない顔。
湊はほんの一拍だけ迷ってから、頷いた。
「はい、一緒に行きましょう」
並んで歩く。
歩幅は自然に揃う。
「最近忙しそうだよね」
「まあ」
「無理しないでよ」
心配そうな声。
湊は横目で見る。
守りたいと思うのは、こういうところだ。
駅前が見えてくる。
人の流れが増える。
その瞬間だった。
「おはようございます、橘さん」
足が止まる。
視線を上げると、柊。
スーツ姿で、穏やかに笑っている。
遥花が小さく会釈する。
「おはようございます」
自然な対応。
仕事で慣れている。
「奥さんですか?」
その言い方に、湊の中で何かが硬くなる。
「妻です」
被せるように言う。
遥花が少し驚いた顔をする。
柊は一瞬だけ目を細めた。
「初めまして。柊です。同じ部署で」
差し出される名刺。
遥花は受け取る。
「ご丁寧にありがとうございます。橘です」
柔らかい笑顔。
いつもの接客の顔。
それが余計に、見せたくない。
「いつも橘さんにはお世話になってます」
「こちらこそ」
穏やかな会話。
何も問題はない。
でも。
柊の視線が、一瞬だけ遥花の左手に落ちる。
指輪。
それを確認するみたいに。
「仲良さそうで羨ましいです」
軽い口調。
湊は一歩だけ前に出る。
さりげなく、距離を詰める。
「そろそろ時間なんで」
「ですね」
柊は微笑む。
「また会社で」
それだけ言って、改札へ向かう。
背中を見送りながら、湊は小さく息を吐く。
遥花が隣で首を傾げる。
「なんか、怖い人?」
「……別に」
「でも、ちょっと変な感じした」
その一言に、湊はわずかに驚く。
気づいている。
全部じゃないけど、違和感くらいは。
「気のせいです」
言いながら、自分でも分かっている。
気のせいじゃない。
遥花がふっと笑う。
「湊、さっきちょっと前に出たよね」
「出てません」
「出てた」
楽しそうに言う。
無邪気だ。
何も知らない。
だから守りたい。
改札前。
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
背を向ける前に、もう一度振り返る。
遥花はもう別の方向へ歩き出している。
その背中に、柊の視線が重ならないことを確認してから、湊は階段を上がった。
守れる距離にいるうちは、いい。
でも。
守れない瞬間があるとしたら。
その時、自分はどうする。
朝の光がやけに白く感じた。




