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「本日からお世話になります、柊です。
若輩者ですが、よろしくお願いします」
拍手が起こる。
湊は書類から目を上げただけで、すぐ視線を戻した。
移動者なんて珍しくない。
仕事が回れば、それでいい。
給湯室でコーヒーを淹れていると、横から声が落ちた。
「お前、気をつけろよ。さっきの」
例の先輩だった。
「……何がですか」
紙コップに湯を注ぎながら、視線は向けない。
「柊だよ」
「はあ」
「同期の間じゃ有名なんだ」
少しだけ声を落とす。
「人妻キラーって」
手が止まる。
「人妻キラー?」
思わず顔を上げた。
「都市伝説ですか?」
「ガチらしい」
「前の支社でも何件か揉めたとかなんとか」
「へえ」
「まあ、お前は大丈夫か」
「何がですか」
「彼女と順調なんだろ?」
「妻です」
先輩が吹き出す。
「あーそうだったな。新婚だもんな」
そのタイミングで、ひょこっと顔を出す影。
「え〜人妻じゃなきゃだめなんですかぁ?」
いつも通り距離が近い。
「じゃあ一回私と結婚します?」
「人妻になったらワンチャンありますよね?」
先輩がすかさず返す。
「奪われる前提で結婚する馬鹿いねえだろ」
「え〜ひど〜い」
頬を膨らませる後輩。
「でもマジで気をつけとけよ。
あいつ距離感おかしいからな」
「距離感?」
「ナチュラルに近い。ナチュラルに褒める。
ナチュラルに踏み込む」
「で、気づいたら崩れてる」
湊はコーヒーを一口飲む。
「崩れる前提なんですね」
「いや、普通はな」
先輩が視線を細める。
「お前は……まあ、どうだろうな」
そのとき、給湯室の入口に影が差した。
「楽しそうですね」
振り向くと、柊。
笑顔が自然すぎる。
「何の話ですか?」
「いや?なにも」
先輩が軽く流す。
「橘さん、ですよね」
「はい」
「噂は聞いてます」
「何のですか」
「愛妻家だって」
湊は表情を変えない。
「素敵ですね」
柊は一歩近づく。
ほんの半歩。
でも、近い。
「守るものがあるって」
その言い方が妙に引っかかる。
「……守るとか、そういう話じゃないんで」
「そうですか?」
柊は柔らかく笑う。
「でも、守ってるつもりでも」
一瞬、声が落ちる。
「意外と隙ってあるものですよ」
空気がわずかに冷える。
先輩が小さく咳払いする。
「おい」
柊はすぐに表情を戻す。
「冗談です」
冗談。
でも目は笑っていない。
「これからよろしくお願いしますね、橘さん」
「こちらこそ」
短く返す。
柊は満足そうに笑って、去っていく。
「……なんか感じ悪くないです?」
先輩がぽつり。
「だから言ったろ」
湊は何も言わず、紙コップを捨てた。
別に、気にしていない。
別に、揺れていない。
ただ。
さっきの言葉が、わずかに残る。
“隙ってあるものですよ”
そんなはずはない。
そう思いながら、
ほんの少しだけ、
胸の奥がざわついた。




