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初夏の終わり。
梅雨の気配を含んだ、少しだけ湿った空気。
「今日、雨降りそうですね」
家を出るとき、湊がそう言った。
特別な日なのに、会話はいつも通りだった。
コンビニの前を通り過ぎて、信号で止まって、
歩幅は自然に揃う。
役所は、思っていたより静かだった。
番号札を取って、並んで座る。
平日の午前中。
周りには年配の夫婦や、小さな子どもを抱いた母親。
「……なんか、普通だね」
思わず笑うと、
「普通ですよ」
湊も小さく笑った。
呼び出されて、カウンターへ向かう。
提出した書類を、職員の人が淡々と確認する。
「不備はありません。こちらでお預かりします」
あっけないほど簡単だった。
判子の音も、拍子抜けするほど軽い。
「これで、受理になります」
それだけ。
祝福も、拍手もない。
ドラマみたいな演出もない。
ただ、書類が一枚、向こう側に滑っていっただけ。
外に出ると、空は曇っていた。
「……終わりましたね」
「うん」
湊が、少しだけ息を吐く。
「実感、ありますか?」
そう聞かれて、考える。
「……まだ、ないかも」
本音だった。
名前が変わったことも、
何かが大きく変わった感覚も、まだない。
でも。
湊が、そっと手を伸ばしてくる。
指先が絡む。
「俺は、あります」
小さな声だった。
「今日で、やっと」
言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「遥花さんを、ちゃんと守れる立場になれた気がして」
その言い方に、思わず笑う。
「立場って」
「大事です」
真顔で言うから、余計に可笑しい。
湊にとっては、ずっと“そこ”だったんだ。
学生で、年下で、
追いつこうとして、焦って、削れて、
それでも横に立とうとしてきた。
「この日、覚えてますか」
不意に聞かれる。
「……出会った日でしょ?」
「はい」
少しだけ、目を細める。
「俺にとっては、全部ここからなんで」
二階の角部屋。
西日が斜めに差し込んで、床が橙色に染まっていた。
玄関を開けたら、悠がいて。
その隣に、見知らぬ男の子が立っていた。
あの時はまだ、湊はただの“悠の友達”で。
年下で、少し生意気で、
でもやけにまっすぐな目をしていた。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「……じゃあ」
わざと、少しだけからかう。
「今日からは?」
湊は、ほんの一瞬考えてから、真っ直ぐこっちを見た。
「今日からは、1つです」
曖昧で、でも力強い答え。
帰り道、ぽつりと雨が落ちた。
「降ってきましたね」
「走る?」
「いや、」
湊が肩を寄せる。
「このくらいなら、いいです」
細かい雨が、ゆっくりとアスファルトを濡らしていく。
特別な日なのに、世界はいつも通りで。
それが、なんだか安心だった。
家の前に着いて、鍵を取り出す。
「……あの」
後ろから、少しだけためらう声。
振り返ると、湊が真面目な顔をしている。
「奥さん、って呼んでもいいですか」
一瞬、固まる。
「いきなり?」
「ダメですか」
本気で不安そうだから、思わず笑う。
「……まだ慣れない」
「俺もです」
でも。
「遥花さん」
「今日から、俺の家族です」
その言い方に、胸が静かに満ちる。
派手じゃない。
何も変わっていないようで、でも確かに変わった。
名前も、立場も、書類も。
だけど一番変わったのは、たぶん——
“選び続ける覚悟”が、同じになったこと。
玄関を開ける。
「ただいま」
「……ただいま」
初めて、同じ言葉を、同じ意味で言った気がした。




