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静かだった。
特別なことは何もしてない。
テレビもついてないし、会話も途切れてる。
でも、落ち着かない。
隣にいる湊の空気が、いつもと違う。
「……どうしたの?」
自然に出た声に、
湊は一瞬だけこっちを見て、少しだけ迷って、
それでも逸らさなかった。
「遥花さん」
呼ばれる。
その呼び方、ずるい。
ちゃんとした時にしか使わないの、知ってるから。
少しだけ、息が詰まる。
逃げたくなるのに、目は逸らせない。
「……結婚してください」
一瞬、
何も理解できなかった。
音だけが通り過ぎて、意味が遅れてくる。
結婚。
——結婚?
頭の中で言葉が反復して、やっと形になる。
「……え、ちょっと、待って」
思わず言葉が漏れる。
心臓の音がうるさい。
「今……?」
おかしな聞き返し方だってわかってる。
でも、それしか出てこない。
湊は、頷く。
「はい」
それだけ。
それだけなのに、逃げ場がない。
冗談じゃないし、勢いでもない。
ずっと考えてきた顔だった。
その顔を見た瞬間、
——ああ、この人、ずっとこれ抱えてたんだ
言わなかっただけで。
見せなかっただけで。
ずっと。
「……ちゃんとした方がいいって思ったんですけど」
ぽつりと落ちる声。
「考えれば考えるほど、わかんなくなって」
少しだけ苦く笑う。
「でも、どれも違うなって思って」
その言葉に、
胸の奥がじんわり熱くなる。
たぶんこの人、
すごくちゃんとしようとしたんだ。
でも、
ちゃんとしようとすればするほど、
“2人じゃなくなる”って気づいたんだ。
「だから」
一瞬、息を吸う。
「今です」
不器用で、真っ直ぐで、
逃げない言い方。
ああもう。
ほんとに、この人。
そこで、湊がポケットに手を入れる。
小さな箱。
視界に入った瞬間、現実が一気に寄ってくる。
「……用意してたの?」
「……はい」
さっきより、少しだけ声が揺れる。
よく見ると、
手が震えてる。
ほんの少し。
よく見なきゃ見逃すくらいの震え。
でも、わかる。
この人、怖いんだ。
それでも、言った。
逃げずに。
箱が開く。
綺麗に収まってる指輪。
それを見た瞬間、
嬉しいとか、感動とか、
そういう単純なものじゃなくて、
もっと重たいものが一気に来る。
この先の時間。
責任。
変わるもの、変わらないもの。
全部。
でも。
目の前にいる湊は、
あの頃と変わってない。
最初に来た日から、
ずっと同じ目で、ここにいる。
逃げないで、
何回もぶつかって、
それでも離れなかった人。
——この人となら
そう思えたから、ここまで来たんだ。
ゆっくり手を伸ばす。
少し震えてる。
でも、引っ込める理由はない。
「……うん」
声が、ちゃんと届く。
「よろしくお願いします」
言った瞬間、
胸の奥にあったものが、静かに落ち着いた。
湊の顔が、少しだけ崩れる。
安心した顔。
でもまだ、どこか信じきれてないみたいな顔。
そのまま、指輪がはめられる。
ぴったりで、
なんか悔しい。
「……似合ってます」
「当たり前でしょ」
すぐ返すと、
やっと少し笑う。
その顔見たら、
こっちも、力抜ける。
距離が近づく。
触れる直前で、少し止まる。
「……いいですか?」
ほんの一瞬迷ってから
「……ん、いいよ」
さっきまであんなにちゃんとしてたのに。
触れる。
軽くじゃない。
確かめるみたいに、
ゆっくり、でもちゃんと。
ああ、
ちゃんと選んだんだなって思う。
この人を。
この先を。
全部。
出会ってからちょうど4年。
付き合って3年半、やっとプロポーズ回です。




