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ゼミの帰り、レポートの相談が長引き
駅前のカフェに入ることになった。
「ここ空いてるやん。」
誰かが言ったそこは、ホテルに併設されたカフェ。
落ち着いた照明。
静かな空気。
ガラス越しにフロントが見える。
何気なく視線を向けて、止まった。
「遥花さん…?」
制服姿。
いつもより硬い表情。
ちょうど、客と向き合っている。
年配の男性。
声は聞こえない。
でも分かる、クレームだ。
遥花は一度深くうなずく。
後ろの後輩が少し青ざめている。
遥花が一歩前に出て、視線を下げる。
深く、頭を下げる。
数秒、
もっとかもしれない。
顔を上げたとき、表情は崩れていない。
柔らかい笑顔。
客は何か言って去る。
遥花は振り返り、後輩に話しかける。
責めない。でも甘くもない。
真剣だ。
後輩は何度も頭を下げる。
遥花は最後に小さくうなずく。
背筋が伸びている。
その姿は、夜の柔らかさとは違う。
“削られてきた人”の立ち方だ。
湊は目を逸らさない。
知らなかった。
いや、想像していなかった。
この人は、こんな場所で、こんな重さを背負っている。
学生の失敗は、自分の責任で終わる。
でもあの場所では、
誰かの失敗も引き受ける。
そのとき、男性社員が近づく。
スーツがしっくりくる年上。
遥花と自然に言葉を交わす。
微笑み合い、距離が近い。
空気が、同じだ。
同じ世界で働く人の距離。
湊の胸が、ざわつく。
悔しい。
あの場所に、今の自分は立てない。
対等じゃない。
守るとか、待つとか。
そんな言葉より先に、
足りないと突きつけられる。
男性社員が去り遥花は一瞬だけ、目を閉じる。
深呼吸。
ほんの一瞬、疲れた顔。
でもすぐ笑顔に戻る。
湊はゆっくり息を吐く。
世界の重さが違う。
だからといって、引く理由にはならない。
むしろ、逆だ。
重いなら、重さごと。
あの場所に立てるようになりたいと思う。
守るだけじゃなく、横に。
嫉妬は、確かにある。
悔しさも。
でも揺れない。
軽い気持ちで好きなんじゃない。
知らなかったから好きなんじゃない。
知って、足りなさを感じて、それでも。
「それでもや。」
小さく、口の中でつぶやく。
遥花はフロントに立ち続ける。
削られても、崩れない。
湊はカフェの椅子に座ったまま、
本気で思う。
追いつきたい。
追いつける自分になる。
境界線は、まだある。
でも今、初めて分かった。
越えたい理由が、はっきりした。




