序章
春は、急にやってくる。
朝はまだコートが手放せなかったのに、
夕方の風はやけにやわらかい。
二階の角部屋は、西日がよく入る。
悠の実家が経営しているマンション。
社会人になってから、私はここに住んでいる。
「家賃、少しでいいよ。」
そう言われたとき、少し迷った。
でも断れなかった。
幼馴染の特別扱い。
昔からの延長みたいなものだ。
だから悠は、今も自然に出入りする。
もちろん、勝手には入らない。
男女だし、そこはきっちりしている。
チャイムが鳴る。
この時間に来るのは、だいたい決まっている。
「遥花、いるか。」
声だけで分かる。
ドアを開けると、悠の隣に知らない男の子が立っていた。
黒いシャツ。
整った姿勢。
少し伏せた目。
でも。
視線だけは、逃げなかった。
「大学の同級生、湊。」
悠が言う。
その人は、ゆっくり頭を下げた。
「初めまして。湊です。」
声は低くて落ち着いている。
年下のはずなのに、騒がしくない。
「遥花です。どうぞ。」
そう言って、ドアを大きく開けた。
靴を脱ぐ所作まで、やけに丁寧だ。
部屋に入ると、湊は一瞬だけ辺りを見た。
広くもない2LDK。
白い壁と、少し年季の入った床。
生活の匂い。
その視線が、なぜか長い。
まるで確かめるみたいに。
「レポートあるから場所貸して。」
悠が勝手にソファに座る。
私はキッチンへ向かう。
後ろから、湊の気配を感じる。
距離が、少しだけ近い。
「よく来るんですか。」
唐突に聞かれる。
「悠はね。ほぼ家族みたいなもんだし。」
軽く答える。
その瞬間、ほんのわずかに、空気が止まった。
湊は頷く。
「そうなんですね。」
声は変わらない。
でも目の奥が、少しだけ暗い。
それが何なのか、私にはまだ分からない。
その日の帰り際。
靴を履きながら、湊が言った。
「また来てもいいですか。」
悠ではなく、湊が。
私は少し驚く。
でも笑って答える。
「どうぞ。」
当たり前みたいに。
ドアが閉まる直前、湊がもう一度こちらを見た。
静かな目。
そのときはまだ、分からなかった。
あの視線が、
私の境界線に触れていたことを。




