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未練はありません。ええ、一切

作者: 入多麗夜

 玉座の間は静まり返っていた。

 色とりどりの礼服が並ぶ中、ただ一人、地味なグレーのドレスに身を包んだ少女がいた。


 リディア・エルメラ。

 侯爵家の嫡出令嬢でありながら、その身なりは侍女と見紛うほど質素である。

 彼女の前に立つのは、金糸の軍服を纏った王太子アデル。側には、薄桃色のドレスに身を包んだ美少女――リディアの義妹となったばかりのセシリアの姿があった。


「本日をもって、私とリディア嬢との婚約を破棄する。理由は明白だ。王妃には、より相応しい者がいると判断した」


 ざわざわと貴族たちの間に波紋が広がる。

 リディアは無言で、その言葉を受け止めていた。目を伏せることも、顔色を変えることもなく。


「セシリア嬢は、才気に溢れ、人々に慕われる理想の王妃候補だ」


 アデルは胸を張ってそう言った。だが、それを誇らしげに聞くのは当のセシリアだけだった。


 壇上の一段下、集まった廷臣たちは、戸惑いと困惑の色を浮かべている。


 表向きには祝福を装いながらも、内心ではこの取り替えに訝しさを感じている者が多かった。


 そして、もうひとつ。最近になってリディアの父、エルメラ侯爵が新たな妻を迎えたことも、誰の記憶にも新しい。

 若き継母エルヴィラとその娘セシリアは、まるで最初からこの家の女主人であったかのように振る舞い、屋敷の雰囲気を作り変えていった。


 だがリディアは、ただ静かに微笑んだ。


「王太子殿下。婚約の破棄、承りました」


 その声に、わずかな緊張が走る。

 泣き崩れるでも、取り乱すでもない。乾いた砂のような声音だった。


「では、ひとつだけ申し上げます」


 リディアは胸元に手を添え、小さな封筒を取り出す。

 濃藍の封蝋には、王家の双頭鷲が刻まれていた。

 それが、国王陛下直筆の証文であることを誰もが知っている。


「この場にお集まりの皆さまに、ご報告申し上げます。エルメラ家の財産および名義は、先月をもって父より正式に、私――リディア・エルメラへと譲渡されております」


 玉座の間が静まり返る。

 それは、エルメラ家の“未来”が、すでにリディアに預けられたという事実を意味していた。


「な……っ」


「さらに補足させていただきます。セシリア嬢についてですが、継母であるエルヴィラ夫人と父との婚姻が未だ正式な届け出を終えておらず、その為、セシリア嬢自身もエルメラ家に籍を置いてはおりません」


 重ねて広がるざわめき、それが何を意味するのかは明白だった。


「ゆえに、“侯爵令嬢”と名乗ることは現時点で認められておらず、また公的な場においてその肩書を用いた場合、不適切と見做される恐れがあります」


 セシリアは顔を伏せ、義母エルヴィラは血の気を失ったように蒼白だった。

 王太子アデルでさえ、何か言い返そうとして、しかし声を発することはできない。


 確認しようと思えば、できたことだった。

 王宮の戸籍局に足を運び、簡単な照会をすれば、セシリアがまだ侯爵家の籍に入っていないことなど、すぐに分かったはずだった。


 それをしなかったのは――ただの怠慢にすぎない。


 安易な希望にすがり、体裁だけを取り繕い、形ばかりの“選び直し”を行った彼らの傲慢さが、今この場であっけなく崩れ去ったのだ。


 誰よりもその現実に打たれたのは、アデル自身だった。


 目を逸らすことも、威厳を保つこともできず、彼はわずかに片眉をひそめて沈黙した。


 そして、沈黙の中で――リディアは、静かに指輪を外した。


 それは王太子から贈られた婚約の証だった。小さな紅玉がはめ込まれた金の指輪を、彼女は何の躊躇もなく取り外す。


 手に持ったまま一度だけ持ち上げ、すぐにその場に落とした。

 指輪は床に当たって音を立てたが、誰も拾おうとはしない。


 リディアは顔を上げ、まっすぐに王太子を見た。


「……まさか、殿下。平民と結婚なさるおつもりなのですか?」


 誰も言えなかったことを、先に口にした。

 玉座の間にいた者たちは、その意味を理解して黙り込むしかなかった。


 誰も言えなかったことを、リディアは淡々と口にした。

 それだけで十分だった。玉座の間にいた者たちは、その意味を理解し、言葉を失った。


 その瞬間、場の空気が変わる。


「待って……! それは、誤解ですわ!」


 沈黙を破ったのは、義母エルヴィラだった。

 彼女は顔を引きつらせたまま、数歩前に出た。


「婚姻の届け出は、近日中に完了する予定でしたの。あの子も、いずれ正式にエルメラ家の籍に――」


 リディアは振り返らなかった。

 その背に向けて、エルヴィラは必死に言葉を重ねる。


「そもそもあなたが家のことを放り出していたから……っ。あの子しかいなかったのです、私には。セシリアを守りたかっただけなんです」


 声は震え、語尾はかすれていた。

 だが、その言い訳を受け入れる者は誰もいなかった。


「私は……何も奪うつもりなんて……っ。リディア、聞いて……お願い……!」


 それでもリディアは歩みを止めず、振り向かなかった。


 義母の言葉は続いていたが、リディアは一切応じなかった。


 足音はゆっくりと玉座の間を進み、扉の前で一度立ち止まった。


「……ここに戻る理由は、もうありません」


 そう言い残して、リディアは扉を出た。




 ◇




 王太子アデルの婚約破棄とその一連の不手際は、王宮内外で問題視された。

 公的記録を軽視した行動、身分制度へ混乱をもたらしたこと、そして何より判断の軽率さが批判された。


 アデルは一時的に公務を停止され、事実上の謹慎状態に置かれる。

 次期王妃と目されたセシリアは、貴族籍の問題が解決しない限り、王宮への立ち入りを制限された。


 エルヴィラは社交界から完全に無視されるようになった。以前のように声をかけてくれる貴族はおらず、招待状も届かなくなった。


 さらに、エルメラ家の家計はエルヴィラによる管理不備を指摘され、一部の資産や運営権は、親族預りとなった。


 屋敷の中では使用人たちの態度も一変し、彼女がかつてのように振る舞うことは許されなくなった。


 一方、リディアは王宮の監査後すぐに正式な後継者として認められ、家の名義も記録上で完全に移った。


 ただし彼女自身は屋敷には戻らず、王都からも姿を消していた。


 滞在先は公表されていないが、近隣諸侯の間では、有力貴族との縁談が進んでいるという話が流れている。


 それでも本人は何も報告をせず、実の父親以外の連絡を断っていた。


 王太子からの謝罪の書簡も、エルヴィラからの再三の便りも、一通残らず送り返されている。


 リディアが何を考え、どこへ向かっているのか――それを知る者はいなかった。

 だがひとつだけ、はっきりしていることがあった。


 彼女はもう、誰の庇護も必要としていないという事だった。


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