怒りの先に選んだ未来は、戻れない道だった
あの日からただ時間だけが過ぎていく感覚。心はあの時から何も変わってはいなかった。幼い紫凛にはとても簡単には乗り越えられる壁ではなかった。それか、乗り越える気がなかったのかもしれない。
毎日呼吸するのでも精一杯だった。それでも生きていかなくちゃいけないような気がして死ぬことはできなかった。部屋から出てこない紫凜に毎日ドアの前に食事を置いてくれていた由紀。妹の代わりに必死に命を繋ぎたかった。そんな気持ちで生きているかもわからない甥に話しかけていた。たわいもない話し、ドアの中から返事が返ってくることはなかったが、紫凜にとってこの会話は唯一の救いだったのかもしれない。
そんなある日、そろそろ1年も終わりかけ、街には色鮮やかな電気が人々を照らしている12月。
リビングで仲良く食事をしている二人の男女がいた。部屋に篭りっきりだったあの時に比べると少しずつではあるが紫凜も前に進んでいた。今日は父親と母親の月命日。だから由紀は紫凜にある提案を持ち出した。
このことが人生の1番の分岐点であることをまだ誰も知るよしもなかった。
「ねぇ、紫凜。3人が大好きだったジャムが今日、新しい味が出るってテレビで観たの。私は今から仕事だからよかったら買ってきてくれない?」
そんな言葉にいつもなら断っていたはずなのにこの日に限っては両親の月命日だったからなのか
「わかった。」
そう笑顔で答えてしまった。その回答に嬉しさを隠せなかった由紀は落ち着かせるようによしっと笑顔で誤魔化した。
行ってきますという由紀の声に答えるように気をつけてねと返す紫凜。食べ終えた食器を片しながら何を考えていたのだろうか。その顔には少しだけ笑顔がこぼれていた。洗い終えた紫凜は服を着替えさっそく、玄関へ行き外の世界へと足を踏み込んだ。
外は生憎の雨。しかし晴天よりか雨の方が落ち着く紫凜にとっては絶好のお散歩日和だった。傘をさしながらぴちゃぴちゃと歩くたびに聴こえる音はメロディのようにも感じた。あんなにも出ることを嫌がっていたはずなのに嘘のようにたのしい世界に紫凜はまた生きてみようと感じた。
しかし、前のように美しい黒髪を揺らしながら歩くことはできなかった。フードを深く被りできるだけ自分の正体を知られぬようにひっそりと歩いていた。無血である事を恥じてる訳ではなく、今純血の奴らに何かされれば確実に殺してしまうと感じていたからだ。
ひっそりと歩いている紫凜を驚いたような顔でこちらを見つめている白髪の少女がいた。突然名前を呼ばれた紫凜は一瞬で声の持ち主を察した。
「紫凜?!」
その声は徐々に近づいてくるのが分かったが紫凜はそちらの方向に背を向けたまま止まっていた。思考が猛スピードで駆け巡っているのがわかるほど頭は必死に働いていた。たった1人の友人。どんな時もそばにいて一緒に笑いあった特別な人。なのになぜ、こんなにも嫌悪感が止まらないのだろう。その時紫凜は察した。もう元には戻れないことを。
その少女は紫凜の肩を掴もうとした。しかしその手を紫凜は痣ができるほどの力で振り払いそのまま走って逃げてしまった。少女はただ突っ立っていることしかできなかった。ヒリヒリとした手を降ろすこともできず、ただ唖然と。
必死に走った。雨に濡れることなど気にもせずに。無我夢中に走っていると気づけば目的地''ゆらりや''に到着した。ここの店主は混血でとても優しい、手に皺がある女性だ。父親が亡くなって疎遠になってしまっていたことから久しぶりに紫凜の顔をみた女性は安心したような顔で、元気よく歩いてきた。
「紫凜ちゃん!元気にしていたの?最近顔を見てなかったから心配してたのよ。」
女性は紫凜のことを孫のように大切にしてくれた。久しぶりに聞くその安心する声は先ほどまでとても荒ぶっていた紫凜の心を安らかにした。
簡単に挨拶をかわし、両親が自殺したこと、家から出れていなかったことなど大きいことから小さいことまでたくさん話した。その話を聞いた女性は大粒の涙を流し、紫凜を抱きしめた。よく頑張ったね。その言葉は1人になった紫凜が1番聞きたかった言葉なのかもしれない。うん、と小さく呟くと気づくと紫凜の頬も濡れていた。長い時間、話をし、またくるねと女性に伝えると手にしっかりとお目当てのものを抱えながら店をあとにした。
結構な時間が過ぎてもまだ空は変わらなかった。話を聞いてもらった紫凜は少しだけ朝より気持ちが軽かった。そのため少しだけ遠回りをして帰ろうと思い、来た道ではない方向へと歩きだした。街の風景は前と変わっていなかったことに紫凜は安心していた。あの時から変わっていないのは自分だけじゃないんだ。そんな些細なことが今の紫凜にとっては幸せだった。歩き進めると、ふと足を動かすのをやめた。紫凜の視線の先には昔両親と3人でよく来た公園があった。決して大きいとは言えないがお花見などにはちょうど良い大きさだった。思い出巡りの気持ちで公園の方向へと足を向け、大きな桜の木の前で止めた。もちろん12月なので花どころか葉っぱさえもついていないが、頭の中では満開に桜が咲いていた。もう二度とあの時には戻れないと改めて思い知らされたような気持ちになり、紫凜の顔は雨のせいなのか濡れていった。1人に佇んでいた紫凜の背後から誰かの足音が聞こえてきた。
「なぁ」
その一言聞いただけで背筋が凍るような感覚を覚えた。目を大きくあけながらぱっと振り返ると、そこには高身長の男が立っていた。男は傘もささずただパーカーを着ているだけだった。男をじっと見つめるだけで声を発さない紫凜にまた男は話しかけた。
「お前無血?」
初対面の男にそう言われ、心底虫唾が走った紫凜は生意気に返した。
「お前に関係ないだろ。話しかけるな」
嫌悪感が隠しきれてない紫凜の発言にハハっと笑い最高だなと言わんばかりに男は拍手を送った。高身長の男が長い足でこちらに向かって歩いてきた。ガッと紫凜の顔を掴むと
「いい目だ。」
そう言い放った。突然の出来事に身動きがとれなかったが、我にかえり男の手から顔を離そうと首を大きく動かしたがびくともしなかった。この男は普通じゃないと瞬時に判断した紫凜は動かずただ男を睨みつけた。そんな紫凜を数秒見つめたあと、あることを提示してきた。その意味をすぐには理解できなかった。
「俺の弟子にならないか?」
弟子?そんなの誰がなるかよと言わんばかりに紫凜は鼻で笑った。
「魔術って知ってるか?」
その一言で馬鹿にしていた紫凜の顔は一気に真顔に変わった。魔術など本の中でしか聞いたことがなかった。そんなもの妄想でしかない。そう思っていた紫凜は男に言い放った。
「あんたいつまで厨二病なんだ?はやく卒業しなよ。」
やばい奴に捕まったと内心驚いていたが弱みを見せることが何よりも自分を危険に晒すことをこれまでの人生で学んでいたからこそ冷静に男に伝えた。男はその言葉を聞くと静かに言った。これから魔術というものを見せてやると。そして男は遠くにあった空き缶のゴミの方向に手をのばした。すると、なんと空き缶のゴミが男の手に飛んできたのだった。その現象を目にした紫凜は目が飛び出そうなくらいに見開いた。たんなる偶然では片付けれないその光景に紫凜は驚きを隠せなかった。そんな紫凜の様子をみて心底嬉しそうにニヤニヤと男は笑っていた。
「どうやったんだ?」
独り言のように呟く紫凜にこれが魔術だよと男は答えた。ここで紫凜は思いついてしまった。
「その魔術ってやつは純血にも勝てるのか?」
しっかり男を見つめ、そう問う紫凜に男は自信満々に
「当たり前だろ。純血なんて比べものにならないよ。」
その回答を聞いた紫凜はなんの躊躇いもなく男に言った。
「なら俺に魔術ってやつを教えてくれ。」
男はもちろんと満面の笑みで答えた。
その笑顔の下に隠されていた素顔に紫凜は気づくことができなかった。