第5話 夢と夢みたいな現実
真夏の強い日差しが容赦なく降り注ぐ。汗で濡れたユニフォームがへばりついて気持ち悪い。俺は額から吹き出た汗を乱暴に拭い、重くなり始めた足に鞭を打ってサッカーボールを追いかける。
「こっちパス出せ!」
「おい、10番ちゃんと見といて!」
「そこぉ! 足止めんな!」
コート内では選手同士の声が飛び交い、コート外からは監督の怒声が飛び込んでくる。声から感じられる熱量が、ただでさえ高い気温をさらに上げている気がした。
県の小学校サッカークラブが集まる大会の準決勝。得点は0対0。同点ではあるものの、俺のクラブチームは防戦一方。まだ点を決められていないのが不思議なくらいだった。
「おい、お前ら顔上げろ! 点決めに行くぞ!」
俺は手を叩き、できる限り大きな声で呼びかけた。チームメイトに向けて……というよりも、苦しすぎて顔を下げようとした自分を奮い立たせるために。
チームメイトの顔色は暗い。そりゃそうだ。このままじゃ負ける。だからこそ、キャプテンの俺がなんとかしないと。
ボールがコートの外へ転がり、審判のホイッスルが鋭く響いた。相手選手がすぐにスローインしようとするが、続けざまにもう2度、短く笛が鳴る。試合の流れが一瞬止まり、俺は反射的に審判の方を見る。
ベンチからの交代の合図――。
視線を向けた先、コートの外に立っているスタッフの人が、大きな声で告げた。
「赤、9番アウト~。10番イン!」
その声と同時に、俺の目に飛び込んできたのは1人の選手だった。
晴人だ。
俺のチームのエースが、足首のストレッチをしながらじっとコートを見つめていた。
晴人は交代する選手とともに1礼してからコートに踏み出す。そのまま駆け足で持ち場へ向かおうとする晴人に、俺は慌てて駆け寄った。
「晴人、お前、怪我は大丈夫なのか?」
「まぁ、大丈夫。なんとかなるだろ」
「なんとかって、お前……」
「なんとかするから、おれにボールちょうだい」
問答無用、と言わんばかりの目が俺を見下ろす。俺は自分のユニフォームを引っ張って鼻下の汗を拭きつつ、軽く息を整えてから言った。
「……ちょっと厳しいかも。パス出すにしても、すげぇ適当なパスに――」
「それでいいよ」
晴人が俺の言葉を遮った。目から、姿勢から、声色から、全てから自信を感じさせるように、ただ一言。
「ボールさえもらえたら、おれが点を決めてくる」
――事実、その通りになった。
たまたま晴人のもとへ飛んでいったボールが晴人の足元へとおさまり、そのままたった1人で点を決めた。
ドリブルで5人くらい抜いていた。相手のディフェンスも、俺達のサポートも、全てを置き去りにして点を決めてしまった。
「晴人、おめーマジかよ!」
「ヤバすぎだってお前」
「お前足首痛いって言ってたの嘘か?」
チームメイトが晴人に駆け寄る中、俺は相手チームと同じように立ち尽くしていた。喜びよりもずっと強く、目の前の現実に失望していた。
晴人はチームメイトに肩をバシバシ叩かれながらも、コートの中心にいる俺のもとへ近づいてくる。晴人は親指をぐっと立て、自信に満ち溢れた笑みを見せた。
「言った通り、決めてきたわ」
――ああ。
こいつは本物の天才だ。
他の誰にもできないことを平然とやってのける、唯一無二の存在。
他の誰でもできることしかできない、俺とは違う。
どうして対等だと思っていたんだろう。
――晴人と俺の差を理解した、小学生5年生の夏の日。
******
軽く意識が浮上し、薄っすらと目を開ける。何度か瞬きを繰り返し、またあの夢を見たのかと1人納得する。俺は1度息を吐き切ってから、ゆっくりと体を起こした。
「おっ、おはようございます」
声のした方へ目を向けると、椅子に座っているチエチカさんが体をこちらへ向けていた。
「ケントさん、体調はどうっすか?」
「……特に、大丈夫かな。寝起きのダルさがあるくらい」
「それは何よりっす」
俺は自分のいる部屋を見回す。木造の小さな部屋。俺が寝ていたものを含めてベッドが2つ。チエチカさんが座っている椅子と、書類が散らかっている机。窓からは柔らかな日差しが差し込んできている。
初めて見る部屋の中でぼーっとしているうちに、異世界に来たことを思い出した。どうやら異世界に来たことは夢ではないらしい。ということは、ここは異世界の宿泊施設だろうか。
「ケントさん」
チエチカさんは立ち上がり、俺の側までやってくると――深々と頭を下げた。
「昨日は俺を助けてくれて、ありがとうございました」
「昨日……?」
なぜ感謝されているのかわからず、寝ぼけた頭で記憶を探る。俺が寝てしまう前の記憶……異世界にやって来た後の記憶。馬車に乗って、魔法が使えるってわかって、そしたら誰かやってきて……。
「ああ、いや、気にしないでください。自分でもよくわかってないんで。それより、あの後は大丈夫でした?」
「はい、先輩が瞬殺してくれました。ケントさんのおかげで、俺も怪我ゼロっすよ」
「……そっか、よかった」
よく覚えていないけど、何とかなったみたいでほっとする。誰かの助けになれたのが少し誇らしかった。
「俺、どれくらい寝てた?」
「ん~、まあ半日ちょいってとこっすね。魔力切れを起こしたのなら妥当な時間っすよ」
「魔力切れ? ……ああ、なんか勇者の書にあったな」
「へえ……なんて書いてあったんすか?」
「いや、単純に『魔力切れに注意!』って。あと、短縮詠唱……詠唱を省略して魔法を使ったら、魔力を大量に使うとも」
「……詠唱の有無でどれほど魔力消費量が変わるのか知りたいとこっすね」
「だな」
リフレクションにも長ったらしい詠唱はあった。けど、間に合わないと感じて短縮詠唱したらぶっ倒れた。リフレクションが魔力を大量に使うのか、短縮詠唱が魔力を大量に使うのか……また後で試してみたいな。
……ついでだ。魔力の話が出たこのタイミングで、俺は気になっていたことをチエチカに聞いてみた。
「……一応確認なんだけど、魔力は魔法を使うための力で、魔力を使いすぎると昨日の俺みたいに倒れてしまう。……って認識で合ってる?」
「合ってますよ。なんで疑問形なんすか?」
「いや、物語でありがちな設定だから知ってるけど、実際に魔法を使う立場になるとは思わなかったから。現実味がないというか」
「……つまり、昨日初めて魔法を使ったってことっすか?」
「そうだな。小さい頃遊びで魔法ごっこをしたことはあっても、本当に魔法を使ったのは昨日が初めてだ」
「初めてであれ、っすか。だいぶいいセンスしてますね」
「ありがと。まあ書いてある通りに読むだけだったし」
俺は立ち上がり、固くなった体をほぐすために大きく伸びをする。うん、特に体の不調は感じない。
勇者の書に書いてある通りに言えば魔法が使える。これからもあの本にはお世話になりそうだ。
俺だけが使える特別な魔法。これを使えば、きっと楽しい非日常を過ごせるんじゃないだろうか。そう思うと、少しだけ胸が弾む。
「昨日も渡した勇者の書の写しと、ケントさん用に買ったものを枕元に置いてますよ。服と靴と、あと魔石っすね」
「おお、ありがと。……なんか至れり尽くせりで申し訳ないな……」
「俺達が付き合わせている側なんで遠慮せずに。昨日みたいに襲われることは避けたいんで、フードを被るのと魔石を持つのは忘れないでください」
「了解」
枕元には畳まれた服の上に、靴や魔石が置いてあった。服や靴は装飾の少ないシンプルなもの。派手なものは好きじゃないからありがたい。
魔石がどう作用するのかは知らないが、襲われたくはないのでとりあえず言われた通りに持っておく。
「着替えとか洗顔とか、朝の用意がある程度できたら言ってください」
いつの間にか椅子に座っていたチエチカは、顔だけこちらに向けて言った。
「ケントさんが用意でき次第、先輩のとこ行きますよ」