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自転車が盗まれた日

 今でこそ、僕は会社員として働き、大学の時に同じ学部だった女性と結婚をし、そして妻となった女性は妊娠をし、このまま問題が発生しなければ、父親になる予定だ。今の僕だって、世間的には凡庸で面白味などない人間だと思うし、時々意味もなく不安になったり、何かを疑ってしまうこともあるが、それを含めて幸せだと感じているし、運にも恵まれていると思っている。


 高校一年生の秋が深まっている時期だっただろうか。

 僕は、自宅から電車で30分ほどかかる、私立の共学高校に通っていた。僕は、父の意向というか半分命令で、すでに塾に通わされていた。父が希望していた高校に受験したが落ちてしまい、大学こそ父の希望が叶うようにというのが理由だった。母は、父ほどテストの点数や偏差値にこだわってはいなかったが、父に逆らうと面倒なことになるため、黙って従っていた。それは、僕も同じだったので、母を責めることは出来なかった。僕は本心ではしぶしぶながら、週に3日ほど学校帰りに、乗り換え駅にある塾へ通っていた。

 高校生の時の僕は、今以上に凡庸でつまらない人間だった。塾に行っていたので、クラスの中で成績が良い方だったという以外は、これといって特徴も自慢できるようなこともなかった。他人と無駄に馴れ合うのは好まなかったが、一匹狼になる勇気はなく、自分と似たような性格の同性のクラスメイト2、3人と友人になり、休み時間になれば一緒におしゃべりをするか、勉強を教えあったりしていた。

 異性のクラスメイトとは、友達どころか話すことすら出来ず、用事があって相手から話しかけられる以外は話したことなどなかったし、声をかけられるだけで緊張してしまう有り様だった。クラスメイトの中には、同性や異性など関係なく、誰にでも馴れ馴れしく話しかける同級生は必ずいて、ちょっと軽薄だなぁと思いながらも、本音は羨ましかった。こんな僕が、女性と付き合って、ましてや結婚するなんて出きるのだろうか、と真剣に悩んだこともあった。

 そんな僕だからこそ、あの出来事は鮮明に記憶の引き出しに残っているのだろう。


 あの日は、金曜日だったことは覚えている。塾がある日だったが、それさえ我慢すれば、明日は休みだと思い、少し気が楽だった。

 その日は、いつもより学校を出るのが少し遅かったせいか、普段は同じ学校の制服を着た生徒達で賑わっている最寄り駅が、珍しく人がまばらで静かだった。なぜ学校を出るのがいつもより遅かったのか、理由は忘れてしまった。おそらく、図書室にちょっと寄っていたか、帰る方向が逆の友人としゃべってしまったか、そんなところだろう。とにかく、駅に人が少ないことも、僕の気持ちをいっそう気楽にしていた。人混みは好きではないし、クラスメイトや顔見知りの生徒に会ってしまうのも、面倒だった。

 一人だった僕は、ホームに立って、高校に入学して買ってもらった携帯電話を開いて、でも特にやることもないので、画面をボンヤリ眺めていた。鞄が学校の教科書と塾のテキストが入っていて、少し重かった。空はカラリと晴れていて、秋の乾いた風が優しく吹いていた。

 もうすぐ電車が来るだろうと思い、携帯電話から顔を上げた時、ハッと気がついた。僕から少し離れた隣に、同じクラスの女子生徒が立って、同じように携帯電話を手に持って眺めていた。

 彼女も、クラスでは僕と同じような存在だった。勉強が出来るが、性格は控えめで大人しく、教室では自分と似たような女子生徒と仲良くし、休み時間は3、4人で集まっておしゃべりをしたり、持ってきた菓子を食べたりしていた。男子生徒とは、用事がある時だけ話をして、恋人どころか異性の友人はいない様子だった。

 僕は、彼女に好意とまではいかないが、好感を持っていたのは事実だ。今思えば失礼だが、僕は勝手に彼女を自分と似ていると考え、いわゆる同志のように感じていたのだ。まともにしゃべったこともないのに、まったく傲慢だったと思う。

 そんな彼女が、駅で電車を待っている姿に、小さな違和感を感じた。確か彼女は、自転車で通学してなかっただろうか。朝に駅から学校に行く途中、あるいは帰る途中で、彼女が自転車に乗っているのを目撃したことがある気がした。どんな自転車だったかまでは、思い出せないが。

 そんな事を考えていたせいで、彼女のことを見つめすぎてしまっていたのだろう。不意に、彼女が顔を上げて、僕の方を向いた。僕は彼女の視線に動揺して、小さく声をあげたが、彼女は怪訝そうな表情ではなく、幼い少女のようにキョトンとした眼をしていた。もしかしたら、僕のことを同じクラスメイトだと一瞬分からなかったのかもしれない。そうだとしたら、やはり悲しいと自分勝手にショックを受けていた。

「ごめん・・・、どうも・・・」

 とりあえずなにか言わなくてはと思い、僕は恥ずかしそうな顔を作って呟いた。彼女に無視されても仕方がないと思いながら。

「いいえ、どうも」

 しかし彼女は無視せず、僕に笑顔を向けて明るい口調で返してくれた。僕はホッとして、勇気を出して、気になっていることを聞いてみた。

「あの、君って自転車じゃなかったっけ?」

 僕の質問に、彼女は少し顔を曇らせ、少し不機嫌そうな表情になった。これは聞いてはいけなかったのか、と僕は後悔し、また「ごめん」と謝ろうとした。

「盗まれたの」

「え?」

「私の自転車、盗まれちゃったの」

 彼女は、普段の控えめな印象とは違い、僕に抗議するかのようにキッパリと言った。

「駐輪場に行ったら、自転車が消えてたの。確かに朝はここに停めたはずだし、鍵もちゃんとかけた記憶もあるのに、ないのよ。もちろん、他の場所も探し回ったし、先生にも相談したわ。でも結局見つからないし、先生にも鍵をかけ忘れたんだろうって言われた上に、私の不注意だって叱られたの。だから、今日は電車で帰らざるおえないわけ」

 僕の言葉を待たず、彼女は一気にしゃべった。僕は、こんな時にどんな態度や言葉が良いのか分からず、戸惑いながら、ゆっくり声を出した。

「それは災難だったね・・・」

「本当に最悪よ。古くて家族のお下がりだけど、気に入ってたのに」

「でも、君は悪くないよ。盗んだヤツが悪いんだ」

「なんで、わざわざ古くて鍵がかかってる自転車を盗むのかしら?鍵をかけ忘れてるのを狙えばいいのに」

「本当だよ」

 そこまで話すと、会話が途切れてしまった。そんな僕らを救うように、電車が駅に来た。

「君は、どこの駅で降りるの?」

「2つ先の駅よ。そこから家まで15分くらい歩かなきゃいけないの。あなたは?」

「僕はk駅で乗り換えるんだ。家の最寄り駅までは30分くらいかな」

「けっこうかかるのね」

「そこまでじゃないよ。もっと遠い所から通ってるヤツもいるじゃないか」

 2人で電車に乗りながら話すと、また僕は会話に困ってしまった。反対に、彼女の方は緊張している様子はなく、自然な口調と態度だった。僕が知らないだけで、実際の彼女には、男友達や恋人がいるのかもしれない。そんな風に想像したら、僕はまた自分勝手に悲しくなってしまった。

 電車は空いていたので、僕たちは並んで座席に座った。僕は、初めて女の子、しかもクラスメイトの女子と2人で電車に乗って、緊張していた。別に彼女に恋をしているわけではないけれど、少なくとも悪くは思っていなかった子だったから、尚更だ。なにか気の利いた会話をしようにも思いつかず、窓の景色を見ながらドキドキしていた。

「ねぇ、あなたはこれから、なにか予定あるの?」

 彼女が口を開いたのは、1つ先の駅に着いた時だった。

「もし予定がないなら、ちょっと付き合って欲しい場所があるの」

「場所?それはどこにあるの?」

「私が降りる次の駅にあるの。もちろん、予定があるならいいの、ごめんなさい」

「いや、予定なんてないよ。付き合わせてくれよ」

 もう、塾のことなどどうでも良くなっていた。どうせ、塾のクラスでは出席も取らないし、ズル休みしたところで、親に連絡が行くこともない。それよりも、せっかくの彼女からの誘いを断るほうが、あまりにも惜しかった。こんな誘いを自分から堂々としてくるなんて、彼女も僕に好感を持っていると思っても良いのだろうか。それとも、ただ単に自転車を盗まれて、だれでもいいから愚痴をこぼしたかっただけかもしれない。どちらにしても、偶然学校帰りで一緒になっただけの僕にを、付き合って欲しい場所に連れていってくれるなんて、それだけで光栄だった。

「ありがとう。私のお気に入りの場所なの。駅を出たらすぐだから」

 彼女が、嬉しそうに僕に笑顔を向けた時に、目的の駅に到着した。僕たちは同時に座席から立ち上がった。


 この駅で降りるのは、僕は初めてだった。改札を通ると東口の西口に分かれていた。東口は商業ビルなどがあり、思いの外人が多かったが、彼女は「こっちよ」と言って西口に向かって歩いて行くので、僕は付いていった。西口はコンビニや銀行はあったが、あとはほとんど住宅街だった。

「ここよ。このお店なの」

 彼女が指差したのは、出口からすぐ隣にある茶色い壁のあまり目立たない建物だった。いかにも、昔からここに建っているという雰囲気で、店名も書いておらず、どんな店なのか僕には分からなかった。

「なんの店なの?」

「喫茶店よ。ここは、コーヒーとケーキが美味しいの。あなた、コーヒーや甘いもの大丈夫?」

「大丈夫、好きだよ」

 僕はとっさにそう答えたが、本当はあまり自信がなかった。甘いものは食べられるが、あまり好きではないし、コーヒーだって普段ほとんど飲まない。ましてや、こんな本格的な喫茶店なんて、入ったことがなかった。値段だって高いかもしれないと思うと、財布にいくら入っているか不安になった。一方の彼女は、安心した表情で、「じゃ、入りましょうよ」と明るく言って、店のドアを開けた。鈴でも付いているのか、カランと乾いた音がした。

 店内は、僕がイメージしていた喫茶店そのままの姿をしていた。あまり広くなく、照明は明るすぎず、カウンター席と小さなテーブル席か5つくらい、どの席も飴色によく磨かれていた。店は古いが、ちゃんと掃除されていて清潔感があり、外壁と同じ木でできた壁には、小さな抽象画が飾られている。カウンターの中には、店主らしい初老の男性がいて、「いらっしゃいませ」とこちらも向かずに無愛想に言った。客は、カウンター席に僕の父親くらいの年齢の男が、1人で煙草を吸いながら、文庫本を読んでいた。

 彼女は慣れた様子でカウンターに近づき、メニューの冊子らしい物をめくっていた。僕も近づいて覗いてみると、たくさんの種類のコーヒーの名前と、同じくたくさんの種類の紅茶の名前が並んでいた。ブルーマウンテン、キリマンジャロ、スリランカ、ダージリン、アールグレイ・・・聞いたことある名前もあるが、どれを選べば良いのか分からなかった。幸運なことに、店の雰囲気の割に、飲み物の値段はそれほと高くなく、僕の小遣いでも足りそうだった。

 少し安心していると、彼女がメニューから顔を上げて、小さめな声で言った。

「あのね、メニューには書いてないけど、ここのケーキはマスターの奥さんの手作りで、すごく美味しいの。苺のショートケーキとチーズケーキしかないけど、好きな方を食べてみて。大丈夫よ、値段は私たちでも払えるくらいだから」

 彼女は、ちょっとイタズラっぽく笑ってみせた。

「すみません、ダージリンのホットとショートケーキを1つづつお願いします」

 彼女は、こちらも慣れている様子で、店主に向かって声をかけた。

「あなたは、なににする?」

「えっと・・・じゃあ、レギュラーのコーヒーのホットと、チーズケーキにするよ」

「わかったわ」

 彼女は、僕の分も店主に注文してくれた。

「かしこまりました。お好きな席でお待ち下さい。できたらお持ちしますから」

 店主は、無愛想だが丁寧な口調で言った。

 彼女はカウンターから離れ、店の中の奥の方の席へ、迷わずに向かった。いつも座っているお気に入りの席なのだろうか。僕は、また彼女のあとを付いていき、テーブルと同じ飴色の木でできた椅子に、彼女と向い合わせで座った。椅子は固いが、座り心地は悪くなかった。それよりも、彼女と顔を向かい合わせて座ることに緊張してしまい、落ち着かなくて、僕は店の中を見渡すふりをした。

「どう?気に入ってくれた?」

「ああ、素敵な店だね。恥ずかしいけど、こんなちゃんとした喫茶店は初めてだ」

「別に恥ずかしくなんかないわ。私がちょっと渋すぎるだけかもね」

「たまにね、1人で来るの。今日みたいに、嫌なことがあったり、反対に嬉しいことがあるときに、なんとなく来たくなってしまうの。誰かと一緒に来たのは、あなたが初めてよ」

 あなたが初めて、という言葉に、僕は嫌でも期待をしてしまった。今回をきっかけに、僕は彼女と特別な仲になれるのではないか、僕は彼女に特別に選ばれたのではないかと、つい自惚れてしまった。

「お待たせしました」

 気がつくと、店主が大きな盆を持って近づいてきた。僕たちのテーブルの傍らまで来ると、彼女の前に紅茶と赤い小さな苺と生クリームで飾られたショートケーキ、僕の前にはコーヒーと焼き色のついたシンプルなチーズケーキを、手際よく丁寧に置いた。「ありがとうございます」と僕と彼女が言うと、「ごゆっくり」とだけ言って、カウンターへ戻っていった。

 彼女が早速紅茶を手に取ったので、僕もコーヒーを手に取った。カップもシンプルな白いデザインだった。コーヒーは熱く、普段嗅ぎ慣れない香りで、最初は戸惑ってしまったが、息を吹きかけて、そっと一口飲んでみた。熱さと強い苦味と、ほのかな甘味がするような気がした。コーヒーをブラックで飲むのも、そしてそれが美味しいと感じたのも、あの時が初めてだったかもしれない。

 彼女は、カップを両手で持って、息を吹きかけながら、ゆっくりと口に含んだ。その時、お互い視線が合うと、さすがに恥ずかしくて、眼を伏せてしまった。

「ねぇ、塾に行ってるんでしょ?」

 彼女は、話題を探しているかのように尋ねてきた。

「ああ、週に3回くらいね」

「今日は休みなの?」

「そうなんだ、急に休講になっちゃって」

 自分が滑らかに嘘をついていることに、僕は罪悪感も違和感も抱かなかった。彼女と、こうしてお茶を飲みながら、向かい合って話をしている方が、余程価値のある時間だと思った。

「勉強熱心ね。うちの学校で、一年生から塾に行ってる子なんて、あんまりいないわよ。あなた、成績だって、うちのクラスじゃトップじゃない?」

「やめてくれよ、そこまでじゃない」

「よく、N君とかに勉強教えてるし」

「アイツか・・・。アイツには教えてるんじゃなくて、ノートや宿題を見せろって言われて、仕方なくやってるだけさ」

 Nは、僕たちのクラスでなにかと目立つ明るい男子生徒だが、授業中は居眠りをしているし、宿題もいつもやってこない。彼は、僕が成績が良く、授業でちゃんとノートを書いたり、宿題を必ずやっているのを知っていて、それでいて自分のクラスでの立場を利用して、僕を都合よく扱っているだけだ。僕は、そんな彼を心の中では軽蔑して見下していたが、彼から眼をつけられて嫌がらせを受けたりしたら怖いので、表面上は彼に頼まれれば、笑って快くノートを渡してしまう。

 軽薄ではあるが堂々と他人を利用する彼と、そんな人間に怯えて従ってしまう僕とでは、どちらが軽蔑されるべき人間なのだろうか。

 彼女は、僕の言葉に眼と耳をしっかり傾けて、何度か頷いてみせた。

「塾には、自分から行きたいって言ったの?」

「まさか。父親から無理矢理行かされてるようなものだよ。3年生になったら、特進クラスに入れってうるさいんだ」

 僕たちの高校は、有名な私立大学の付属だったが、父親はその大学は認めず、もうワンランク上の大学を受験するために、特別進学クラスに進級することを望んでいた。

「すごいわね。お父さんに期待されてるのね」

「ただの見栄だよ。君こそ成績いいじゃないか。塾には行ってるの?」

「いいえ、私は自己流で家で勉強よ」

「すごいな。君の方が、よっぽど優秀だよ」

「私は、親に期待されてないから」

 彼女はそう言うと、フォークでショートケーキに乗っている苺を突き刺した。

「私の両親はね、私が勉強することや、試験でいい点をとっても、ちっとも関心ないの。両親は、勉強が出来るより、女なんだから、早く結婚して孫の顔を見せろってうるさいのよ。大学じゃなくて、短大や専門学校くらいで女はちょうどいいってね。今時ひどい差別的考えでしょ?母親なんて、もし働きたいなら、保育士や看護師になれば、なんて言うのよ。腹が立ったわ。私は、保育士や看護師になりたいなんて、一度も言ったことないのに。別に、その仕事を差別してるわけじゃないの。むしろ母親が、そういう仕事を見下してると思わない?仕事に、優劣なんてないのにね。私は、小さい頃からそう言われて育ったから、逆に悔しくて。だから勉強して、いい大学に入って、いい会社に就職して、ちゃんと自分で稼げるようになって、いい意味で裏切ってやろうと思ってるの。私のお姉ちゃん・・・短大に行ってる姉がいるんだけどね。姉は今、もう社会人の恋人がいて、短大卒業したら、その恋人と結婚して、専業主婦になるのが目標なの。専業主婦が悪いとは思わないけど、恋人に頼って生きるのが当然って考えてる姉のことを、私は軽蔑してるわ。だから、余計に勉強に身が入るの。あなたみたいに、親に成績で期待されるのも辛いかもしれないけど、結婚と子供を産むことばかり期待されるのも、辛いときがあるわ」

 彼女は、そう言い終えると、苺を口に入れて頬張った。僕も、フォークを手にして、チーズケーキの先端を取って、口に入れた。濃厚なチーズの味わいと香りが、口の中で広がった。

 しばらく沈黙が続いたが、なぜかまったく気まずくなかった。店内に漂うコーヒーと煙草の香りに、僕はなんだかうっとりした。本当は、彼女が僕に複雑な気持ちを話してくれたことが嬉しくて、酔っていたのかもしれない。

「ねぇ、あなたは、誰かのものを盗んだことある?」

 彼女は、紅茶を一口啜り、ケーキをフォークで崩しながら尋ねてきたので、てっきり自分の自転車についてかと思った。

「自転車は盗んだことはないな」

「自転車じゃなくて、なんでもいいから、誰かのものをこっそり盗んだことってない?」

「そうだな・・・、たぶんないよ。そんな度胸はないから」

 彼女は、僕の言葉にクスリと笑って、ケーキを口に入れた。

「私は、あるのよ」

「え?」

「人のものを、こっそり盗んだの」

 彼女は、ケーキを咀嚼しながら、語り始めた。


 小学校5年生の時よ。その時、同じクラスですごく仲のいい女の子がいたの。休みの日も放課後も、毎日のように、彼女と遊んでた。と言っても、大体彼女の家に行って、彼女の持ってるアイドル雑誌を見て、楽しむことばっかりだったけどね。

 その頃、私と彼女は、ある男の子のアイドルのファンで、すごくハマってたの。今はもう好きじゃないけど、テレビにはよく出てるわ。特に彼女は熱狂的で、そのアイドルが出ている雑誌は、全部買ってたの。本当に全部よ。ちょっとインタビューされて、顔が一枚載ってるだけでも買ってたわ。彼女の親は共働きで、おじいちゃんがいたんだけど、彼女はおじいちゃんから、欲しいだけお小遣いを貰えていたの。親が構ってあげられない分、おじいちゃんが甘やかしていたのね。

 彼女は雑誌を買って、ただ読むだけじゃないの。そのアイドルの彼が写っているページを全部ハサミで切り抜いていたの。どんな小さな写真でも、彼がメインではなく、片隅に小さく写っているのも見逃さずにね。一枚一枚、丁寧に切り抜いていたわ。切り抜いた写真は、段ボールに溜め込んで、お気に入りの写真はファイルにスクラップしていたわ。

 私は、それを毎日のように見せられて、本当に羨ましかった。私の親は、お金にはうるさくて、雑誌を買って欲しいってお願いしても、テレビで観れるって言って、買ってくれなかったの。たぶん、彼女はそれを知ってて、わざと私に見せつけていたんだと思う。そう考えると、友達だけど、憎らしかったわ。

 私は、彼女に何度か、いらないものでいいから、切り抜きを一枚ちょうだいってお願いしたの。でも、彼女はいつも拒否した。「いらないものなんてないし、これは私のお金で買ったものなんだから」ってね。そう言われて、ますます彼女が憎らしくなった。おじいちゃんから、お小遣いをいつもねだってるくせにって。

 あの時も、確か学校帰りに、彼女の部屋に遊びに行った日だったわ。

 彼女は、新しい雑誌を手に入れて、一緒に見ていたの。その雑誌にも、彼がたくさん載っていて、彼女はウキウキしていたわ。その時、彼女が、「飲み物持ってくるから」と言って、部屋を出ていって、一階の台所へ行くために、階段を降りていったの。私は、彼女の部屋で1人きりになった。チャンスかもしれない、と思ったの。それ以上は、考えなかったわ。彼女が切り抜きを溜め込んでいる段ボール箱に、手を突っ込んで、中身も見ないで、手に最初に触れた小さな切り抜きを取って、どんな写真かも見ないで、自分のポケットにねじ込んだの。その直後に、彼女が階段を上がってくる足音が聞こえたわ。彼女が、両手に飲み物を入れたコップを持って、部屋に入ってくると、私は、「ごめん、お母さんと一緒に買い物に行く約束、忘れてた」と嘘をついたの。彼女は、疑ってる様子はなくて、「じゃあ、帰っちゃうの?せっかく、一緒に新しい雑誌の切り抜きしようと思ってたのに」と、残念そうにしてたわ。私は、「本当にごめんね。また明日ね」と言って、ランドセルを急いで背負って、早足で逃げるように、彼女の家から出ていった。外に出てから、急に心臓がドキドキしてきて、なにやってるんだろうって思って、とにかく自分の家まで走って帰ったわ。なにかが、後ろを追いかけてくるような気がしてね。

 家に帰って、手も洗わずに、すぐに自分の部屋に入ったわ。走ってきたせいで、しばらくベッドに腰かけて、息を整えなくちゃいけないくらい、ゼイゼイしていた。やっと息が落ち着いてくると、私はランドセルをベッドに下ろして、恐る恐る自分のスカートのポケットに手を入れたの。あの出来事は、実は自分の妄想だった、あるいは、帰ってくる途中で道に落としてしまった、なんてことを少し願ってね。でも、切り抜きはあったの。急いでねじ込んだから、それはクシャクシャに丸まっていたわ。破れないように、そっと開いてみると、それは私の掌にも満たない大きさで、彼が横を向いて、おそらく楽屋の椅子に座って、イヤホンでなにか聞いている場面を撮ったものだった。小さい写真で、顔が横を向いてしまっている上に、ポケットにねじ込んでシワシワになっちゃったから、彼の顔も歪んでしまっていたの。ちっとも格好いい写真じゃなかった。私は、ガッカリと後悔で、すぐにその写真を、細かくちぎって、部屋のゴミ箱に捨てたの。

 その後来たのは、罪悪感より、恐怖だったわ。もし友達の彼女が、私が写真を盗んだことに気づいて、おまけに捨ててしまったと分かったら、どうなってしまうか。私を責めるのはもちろん、クラスメイトに「あの子は泥棒だ」と言いふらして、他の友達からも無視されたり、悪口を言われるかもしれない。それを考えたら、体が震えてしまったの。その日は、夕飯もほとんど食べられなくて、夜も眠れなかったわ。

 次の日、ドキドキと緊張で学校に行ったわ。本当なら休みたかったけど、逆にそれも怖かったから、半分泣きたい気持ちで行ったの。下駄箱で靴を履き替えていたら、「おはよう」って声がして、振り向いたら彼女だった。心臓が痛いくらいキーンとしたわ。でも、顔に出すまいと必死で、私も「おはよう。昨日はごめんね」と返したの。彼女は笑顔で、「いいよ。それより今日もうちに来ない?切り抜きの途中なの」と明るく聞いてきたわ。一瞬警戒したけど、彼女の顔を見て、たぶん演技ではないだろうと分かった。彼女は私と違って、機嫌が悪いとすぐに顔や態度に出るタイプだから。私は、心の中で大きく安心のため息をついて、いつも通りに彼女と接したわ。クラスメイトから無視されるようなこともなかった。つまり、彼女は私が大切な切り抜きを盗んだのに気づかなかったの。

 彼女とは、中学校から別々になって、それっきり会ってない。


 彼女は、ケーキを綺麗に食べ終え、紅茶を飲み干した。僕の方は、乾き始めているチーズケーキと、ぬるくなったコーヒーが、まだ半分以上残っていた。

「ねぇ、なんか雨みたいな音がしない?」

 彼女が不安そうに言うので、僕は慌てて、残りのケーキを口に押し込み、コーヒーで流し込んだ。

 会計をして、店主の「お気をつけて」の言葉を背中で聞きなから、外に出た。店に入るまで晴れていたのが、信じられないくらいに、空は灰色の雲で覆われ、大粒の雨が降っていた。

「本当に今日は最悪ね。朝の天気予報では、こんな天気になるなんて、言ってなかったのに」

「秋の天気は変わりやすいんだ」

「ごめんなさい。あなたを巻き込んじゃったみたいで」

「仕方ないさ、気にしないでくれ」

 通り雨だとは思うが、すぐには止みそうにはなかった。

「良かったら、これ使って帰りなよ」

 僕は、自分の鞄のファスナーを開け、中身を漁った。そして、奥に追いやられてた、黒い折りたたみ傘を出した。

「そんな悪いわ。あなたが濡れちゃうじゃない」

「大丈夫だよ。僕の家は駅から近いし、それにその頃には止んでるよ、きっと」

 本当は、最寄りの駅から家までは、歩けば20分近くかかるが、この時の僕は、彼女の為なら濡れて風邪をひいても構わないとすら思っていた。

「・・・本当にありがとう。じゃあ、借りていくわ。来週の月曜日までには、しっかり乾かして、必ず返すから」

 彼女は、はにかんだ笑顔で、僕の傘を受け取ってくれた。彼女は傘を広げると、少し遠慮がちに差した。

「今日は、急に誘ってごめんなさい。でも、ありがとう。楽しい時間だった」

「僕も楽しかったよ。ありがとう」

「じゃ、月曜日にね。さようなら」

「ああ、気をつけて」

 僕たちは、お互いに手を振り合うと、彼女は背中を向けて、水溜まりがあるにも構わず、バシャバシャと音を立てて、早足で帰っていった。僕は、曲がり角で彼女の姿が見えなくなるまで、店の前に立っていた。口の中に、さっきのコーヒーの苦味が、まだ残っていた。


 次の週の月曜日が待ち遠しいのは、生まれて初めてだった。彼女が、どんな風に僕の傘を返してくれるのか、休みの間に何度も想像した。教室で、クラスメイトに見られるのも構わず、堂々と僕の前に来て返すのか。あるいは、人の見ていない場所に呼び出して、コッソリ返してくれるのか。下駄箱に、お礼の手紙を添えていれてあるかもしれない。ロマンティックな想像は膨らむばかりだった。これをきっかけに、僕たちは本当に恋人同士になれるかもしれないと、期待しない方が無理だった。あんな雰囲気のある喫茶店で、僕は彼女の秘密の話を聞かせてもらえた、特別な存在だと、その時の僕は胸がドキドキして、父親のプレッシャーも、母親の小言にもイライラしなかったほどだ。

 そして月曜日、空は綺麗な秋晴れで、僕は鼻歌を歌いたい気分で電車に乗り、スキップしたいような気分で駅から学校への道を歩いた。途中で友人に会い、「月曜なのに、機嫌良さそうだな」と不思議がられた。もちろん、僕はその理由を話さなかった。僕には、とても大事な秘密があるのだから。

 僕は友人としゃべりながら、学校に向かった。周りには、同じ学校の生徒たちで賑わっていて、普段ならそれだけで憂鬱なのに、その日はちっとも気にならなかった。友人と話している最中も、僕は気づかれないように、周囲に眼を配らせた。彼女が、新しい自転車で登校してくる姿を探すためだ。しかし、同じ制服で、似たような雰囲気の生徒が多いため、なかなか見つからなかった。

 もうすぐ学校が着いてしまう、その時だった。後ろから、ギィギィと軋んだ音が聞こえた。そっと振り向いてみると、彼女が自転車に乗って、こちらに向かってきていた。僕はドキッとし、彼女と一瞬眼が合った。僕は、「おはよう」と声をかけるか迷っている間に、彼女は僕の横をスーッと通り過ぎて行った。彼女の自転車は、相変わらずギィギィ音をたてていた。

 彼女は、僕に気づいていたはずなのに、なにも声をかけてくれなかった。僕が友人といたので、照れ隠しなのかもしれない。しかし、それより気にかかったのは、彼女が乗っていた自転車が、明らかに新しい物だとは思えなかったことだ。ギィギィとした音もだが、一瞬見えた車体は、全体的に錆び付いていた。彼女は、金曜日に盗まれた自転車は、家族のお下がりだと言っていた。また、誰かのお下がりを貰って乗ることになったのだろうか。

 教室に入ると、彼女はクラスメイトと話をしながら、鞄から教科書やノートを出していた。僕の方には眼を向けず、友人と笑顔でしゃべっていた。僕は、彼女がいつ、どのタイミングで、どのような形で傘を返してくれるのか、ドキドキしていた。とりあえず、今日の下駄箱には入っていなかった。

 その日は、授業はただ黒板の内容をノートに書くだけで精一杯で、彼女の動きばかり、眼で追っていた。彼女は、授業中は静かにノートをとり、休み時間は友人と話したり、一緒にトイレに行ったりしていた。僕に話しかけてくる様子は、一切なかった。僕は、出来る限り楽観的に考えようとした。もしかしたら、傘が乾いていなくて、今日は持ってこれなかったのかもしれない。あるいは、なにかのトラブルでうっかり傘を壊してしまい、新しい傘を探しているのかもしれない。あるいは、彼女の父親が、間違えて仕事に持っていってしまったのかもしれない・・・。可能性は、いくらでもあるのだ。僕は期待し過ぎてしまったのかもしれない。自惚れていたのだ。大丈夫、あの彼女なら、きっと傘を返してくれる。

 しかし、次の日も、そのまた次の日も、彼女は傘を返してくれなかった。

 僕は、何度か彼女に話しかけてみようと試みたが、勇気がなくてできなかった。僕は、だんだんと自信がなくなってきた。もし、彼女に傘の話をして、「なんのこと?」と言われたらどうするのか。そもそも、あの金曜日の出来事自体が本当に現実にあったのか。僕のお得意の妄想ではないのか。あの店も、店主も、あの時口に入れたコーヒーやチーズケーキも、本当に実在するのだろうか。僕は、それを確かめることができなかった。怖かったからなのか、たとえ妄想だったとしても、あの出来事を心にしまっておきたかったのか、自分でもよく分からなかった。

 2年生に進級して、彼女とは別々のクラスになるまで、彼女とは一言も話さなかった。3年生で、僕は特別進学クラスに進級した。クラスの名簿に彼女の名前はなかった。僕は付属ではなく、別の大学に合格したが、彼女が結局、どこへ進学したのかは知らない。


 妻の少しずつ膨らむ腹を見ながら、あるいはベランダで煙草を吸いながら、今でも時々考える。

 彼女は、僕の傘をどうしたのだろうか。今でも持っているのか、捨ててしまったのか。あの喫茶店での出来事も、あの時彼女が話してくれた秘密が、たとえ嘘でも、僕の心には、いまだに残っていることだけは、変わらない。

 秋の終わり頃、僕は父親になる予定だ。

 自分にも、こんな思い出があったら良かったなぁと思いながら書きました。

 ちなみに、私には高校生時代、こんな青春はありませんでした。

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