おさるのジョージ
これでドクターがにやにや笑いを浮かべている方がまだましだった。相変わらずのポーカーフェイスで、足元の鞄から注射器を取り出す。
「腕を出して肘かけに乗せて」
一にも二にも血が重要なんだな…。シャツの左袖を肘までめくりあげ、言われたとおりに肘掛けに乗せる。採血されるだけとわかっているのに、ドクターが立ち上がった瞬間びくっとする。駄目だ怖い。
ソファの横に膝をつかれたときは泣きそうになった。腕を消毒されながら、近くで見たら宝石みたいな青い目だとか、まつげまで金色なんだとか思うのに、頭の中はこわいよーこわいよーと注射を怖がる幼稚園児みたいになってる。
採血が終わったら、ドクターは袖をめくりあげた腕を両手で掴んだ。何かを確かめるように軽く押したりひねったりする。たぶんその細い指だけで、俺の腕の骨なんか粉々に砕けるだろう。力の差がありすぎる。
…力の差?なんでそんなこと思うんだろう。
「服を脱いで。前を開けるだけでいい。」
なんか本当にお医者さんに診察してもらってるみたいだな。お医者さんだけど。ただ聴診器を当てる代わりに、左の首筋にすっと手を当てられた。もう何回目だってくらい背中がぞわっとする。
何かを確かめるようにしばらく頸動脈の上に置かれた手が、そのまま首筋から胸元へ、胸元から心臓の上までゆっくりと滑っていく。普通だったらいやらしい感じがする行為だが、エロのかけらもない。
「なるほどね」
そう言うとドクターは優しく、とても優しく俺の顔を両手で包んだ。女の子ならキスされるのかとうっとりするシチュエーションだが、俺的には顔の周りに毒蛇が10匹いるくらいの感覚しかない。俺の頭蓋骨を紙みたいにくしゃっとつぶせる蛇だ。
「怖がらなくても酷いことはそんなにしないよ」
そう言って薄く笑った。俺の日本語の知識だと「そんなに⇒酷いことはしない」というのは「ちょっといじめる」なのでセーフ。「酷いことは⇒そんなにしない」というのは酷いことをする宣言で…うわあああああ。やばいマジ脂汗出てきた。
「…お前ら何をやっているんだ。」
目だけ向けると、ドアを半分開けたまま勇さんがあきれたような顔をしていた。助かった…いやまだドクターが手を離してくれない。振り返って笑顔を向けている。勇さん助けてくださいお願いします。あとお前らじゃなくて俺何もしてません!悪いのはドクターだけです!
「ヴィンス、いじめるのもいい加減にしておけよ。」
何のことかな?みたいな顔をして、ドクターは手を離して元の場所に腰掛けた。気が抜けてソファの背に頭を預けてずるっともたれかかる。ついでにもたれかかったままシャツのボタンをとめる。やばい魂抜けかけてる俺。
勇さんはドクターに真っ先にお茶を出す。ついでにお盆の上の箱からお菓子を1つ出して並べて置いた。萩の月じゃん。俺の前にもお茶を置き、萩の月を2個積み上げた。
「ヴィンスの土産だ。仙台駅に凄腕の売り子さんがいたらしい。」
「あの売店のご婦人は天才だ。この僕に売りつけたからな。天才の技はどんなものでも素晴らしい。」
ドクターのよくわからないご高説を聞きながら、勇さんは最後に自分の前にお茶と1箱だけ置いた。なんで俺だけ2個?甘やかされてたくさん食べろということなのか、2人とも甘い物があまり好きでないので処理係にされたのか…。いいけど。好きだし。2個くらい余裕で食えるし。6個入り箱だからあとまだ2個残ってるし。
ドクターは箱から出して少し口に入れたが、たいして美味しくないものを口にするような顔をした。やっぱり甘い物あんまり好きじゃない…あれ?カステラ好物って言ってなかったっけ?
「目が覚めてから特に気になったことは?」
2個目の萩の月を食べているとき、まだ半分も食べてないドクターに聞かれた。たった1個をもてあましている感じがする。もしかするとクリームが嫌いなのか?でも本当に嫌いなら最初から勇さんが出さなそうな…。
そんなことを考えながら質問に答える。
「風呂はいったら全身垢だらけで、めちゃくちゃ髪の毛が抜けました。あ、あと…」
さすがに物を食べながら言うことじゃないよなぁ。と一応常識を働かせたのだがドクターは追求してきた。
「あと、何?」
「…すっげーでっかいうんこ出ました。」
勇さんはちょっと眉をひそめたけど、知ーらない。言えって言われて言っただから俺悪くないもん。だがドクターはなるほど、というようにうなずいた。冷静な反応されるとなんか逆に羞恥プレイされてる気になる。
萩の月の残りを口に入れてドクターが言う。
「まだ人魚じゃない。人間が混じってる。」
勇さんがぎょっとしたように聞き返した。
「失敗したのか?」
「成功したからこそ、かな。怪我を治すのが最優先で、次が臓器。時間がかかる骨は後回し。完全に入れ替わる前に目が覚めたのは、これ以上寝ていると危険だと体が判断したんだろう。バランスが悪い。安定するまで…そうだな、1ヶ月くらいは無理をしない方がいい」
「無理ですよ、一ヶ月働かなかったらおまんまの食いあ…ああっ!!!」
思わず腰が浮いた。やばい、すごい大事なことを思い出した。
「すみません勇さん電話貸してください!親方に連絡しないで無断欠勤したら怒られる!」
いや怒られるなんてもんじゃない、パンチの2,3発は飛んでくる。キックもおまけでつく。焦っている俺を見ながら、勇さんは落ち着いて湯飲み茶碗を口に運んだ。
「武田園芸の武田剛毅社長のことか?」
全力で首を縦に振る。
「どうするか考えないといけないな…思ったより早く捜索願が出たそうだし。とりあえず警察から交通事故で入院していると連絡してもらったが。」
「そんなの、親方は病院にすっとんでくるに決まってるじゃないですか。すぐばれますよ。」
「意識不明で面会謝絶だ。誰が来ても病室には入れない。」
なんとなく話がかみあってない気がする。
「勇さん、言い訳の話してるじゃないんですか?」
「隠蔽工作という方が正しい。君が入院しているのは聖マリアンナ病院だ。さて、誰が入院手続きしたことにして、いつ意識が戻って一般病棟に移すか…頭が痛いな。」
なんか言ってることがおかしい。変だ。
「俺…親方の名前言ってませんよ?それに警察が嘘の連絡するわけないじゃないですか」
「前者の答えは名刺から調べた。後者はしかるべき筋から依頼があれば警察は嘘の連絡くらいする。」
「勇さん…それ、どういうことですか?」
「これも長い話になるが、一言で言うと内調。内閣調査室が絡んでいる。」
「人魚が増えたと言ったらさすがの子豆も驚くだろうね。」
「そうだな。鷹取さんには直接話した方がいいだろう。都合がつくか聞いてみる。」
鷹取こまめさん…内調の人なんだろうか。警察とか検察とかはTVドラマで出てくるけど、内調となるとちょっと想像がつかない。とりあえず落ち着こうと3個目の萩の月を口に入れる。勇さんにもう1個欲しいといったら残りを箱ごと渡された。結局全部食えということか。
そういえば名前で思い出した。
「あのー。俺、ドクター…ヴィンセント先生のことなんて呼べばいいですか?」
「え?なんだそんなこと悩んでたのか。ヴィンスでいいよな?」
聞かれた本人は完全無視で答えた。「おまえごときにヴィンスと呼ばれたくない」ですねよくわかります。あからさまな拒否に勇さんがため息をつく。
「いやさすがに馴れ馴れしすぎるんで。ヴィンス…さん。ヴィンセントさん。とか…。」
「日本人は呼び捨てにするのは抵抗があるが…普通にヴィンセントじゃ駄目か?慣れたらヴィンスと呼べばいい。いいよなそれで!」
勇さんは最後はちょっと強めに言ったけど、本人はいいとも悪いとも言わなかった。ヴィンスでなければあとは好きなように呼べということらしい。「慣れたら」と言われても、俺がヴィンスと呼ぶ日は一生来ないと思いますよ勇さん。
「じゃあ…ヴィンセントで。ついでにもう1つ聞きたいことがあるんですけど、なんで俺、小猿なんです?」
そう聞くとヴィンセントは一言答えた。
「Curious George」
「キュリアス?」
「ヴィンス、お前…まあいい。キュリアスは知りたがりとか、好奇心が強いという意味だ。キュリアス・ジョージというのは…絵本だ。小猿のジョージが主人公で大騒動を巻き起こす。そういう内容の絵本だ。」
「…ジョージでいいじゃん。」
「諦めろ。こいつ、俺と最初に会ったとき、はじめましてでもこんにちはでもなく、いきなり『猿!』って言ったからな。名前で呼ばれるまで一年かかった。」
「猿を猿と呼んで何が悪い」
うっわ…生まれつきのいじめっ子だこいつ。確信しながら4個目の萩の月を口に入れて気づいた。俺、お菓子食べてる。勇さんもヴィンセントも食ってる。おかしくないか?
「聞いてばっかりですみませんけど、もう1ついいですか?」
「ん?何でもいいぞ。」
「いまお菓子食べてますけど…人魚って吸血鬼なんじゃないんですか?」
勇さんはあきれたように口を開いた。
「一緒に朝飯食ったの忘れたのか?」
あ、確かに。山菜がうまかったことしか覚えてなかった。
「人魚は吸血鬼じゃない。食事は人間と同じだ。人の血を飲む必要はない。ただ本能的に血には惹かれるし、飲めば延命効果があるという意味ではまあ…吸血鬼的ではある。」
納得。俺の血を飲んだとき、やっちまったって顔をしてたのは本当にうっかり「やっちまった」んですね。目の前で流れる血を飲まずにいられないというのは限りなく吸血鬼に近い気がするけど、少なくとも飲む必要がないのは安心した。